大相撲の元大関朝潮で先代高砂親方の長岡末弘さんが2日、小腸がんのため死去したことが3日、分かった。67歳だった。

<元大関朝潮ピープル>

◆体育苦手 1955年(昭30)12月9日、高知県室戸市生まれ。捕鯨船砲手の父友久さん、母季喜さんの長男で4歳下に弟敏也さん。佐喜浜小では理数系が得意でほとんど5も体育だけ2。小6では級長で銀行員か教師が希望だった。高知市内に下宿して愛宕中に進んで塾通いした。

◆尻だし嫌 小6で80キロの健康優良児で、同姓がいたため「大ちゃん」と呼ばれるように。「お尻を出すのが嫌」と相撲から逃げていたが、中2で相撲部監督から勝手に登録され出場した県大会で2位。小津高3年で国体出場、高校選抜ハワイ遠征で補欠に入る。

◆3年で開花 有望選手の「おまけ」で近大に進み、2年で西日本学生選手権優勝。3年で学生横綱、学生4人目のアマ横綱と史上2人目の2冠で開花した。翌年は史上初の2年連続2冠。大学タイトル16は輪島を2つ更新の最多となった。商経学部経営学科で卒論は「多国籍企業について」。ピンクレディーの物まねが得意な芸能部長で、現役時の84年には「ほたる川」で歌手デビュー。

◆争奪戦 栃錦の春日野、若乃花の二子山など10部屋以上による争奪戦となり「角界の江川君」とも呼ばれた。高砂、出羽海、時津風の3つに絞り、当時の近大祷監督と高砂親方(元横綱朝潮)が奄美大島の同郷などもあり、77年12月9日の22歳の誕生日に高砂部屋入門を決断した。

◆順調な出世も 78年春に60枚目格の幕下付け出しデビュー。7戦全勝優勝を飾り、夏6勝で最短2場所での新十両昇進となる。十両は2場所連続10勝で九州場所新入幕。79年初は大関戦最速で貴ノ花を破っての10勝で敢闘賞。翌春場所で長岡から朝汐に改名も、初日から8連敗で7場所目にして初めて負け越した。

◆7度目の挑戦 80年夏場所、新小結10勝で初の殊勲賞となる。新関脇の名古屋は11勝で2場所連続殊勲賞。秋に大関初挑戦も6勝で三役から陥落した。82年九州場所で4代目朝潮に改名。7度目挑戦の83年春場所は12日目に11勝目で大関を手中にした。13日目に支度部屋で準備運動中にふくらはぎ痛め、春日野理事長が「休場したら見送り」と激怒。千秋楽に12勝目を挙げ、183キロの史上最重量大関に昇進した。

◆北の湖キラー 80年春に横綱7戦目、入門時に「この人を1度倒したい」と言った北の湖に2度目の挑戦で、引き落として初金星を挙げる。左の相四つで相性よく、通算13勝7敗(1不戦勝含む)と大きく勝ち越し、初日からの連勝も6度ストップした。引退後に北の湖理事長は「顔を見ると思わず笑いそうだったから」と冗談めかした。3横綱総なめ3回。2代目若乃花6勝9敗、千代の富士11勝25敗、隆の里4勝3敗など、大関以下では最多の40勝(67敗)と横綱に強かった。

◆はなむけ初賜杯 85年春場所は3勝2敗から快進撃し、千秋楽の大関相星決戦で若嶋津を寄り倒し。13勝2敗で唯一となる初優勝を飾った。この場所限りで入門時から高見山とけいこ相手になってくれた兄弟子富士桜が引退。パレードで旗手をお願いして「一番の思い出」と最高のはなむけになった。

◆押しの一手 30歳までの宣言通りに85年6月、今宮戎の福娘で7歳下の芋縄恵さんと婚約した。お見合いをはしごして有馬温泉から遅刻も、待っていた夫人に「ピンときた」とあとは押しの一手。夫人の父純市さんも近大卒で朝潮ファンとあって、86年1月に挙式した。長男茂紀さん、長女由希子さんが生まれた。

◆最後も大阪 89年春場所で初日から4連敗して現役を引退し、山響親方として高砂部屋付きとなる。通算564勝382敗33休。大関在位は36場所で294勝203敗33休。幕内優勝1回、金星5個。殊勲は最多タイの10、敢闘3、技能1と三賞は4位タイの14回受賞。現役時183センチ、183キロ。得意は突き、押し、左四つ、寄り。

◆名門継承 90年3月に先代が病気で廃業する若松部屋を継承して独立した。02年2月に7代目高砂を襲名して若松部屋と合併。08年から広報部長など4期理事を務めた。横綱朝青龍、大関朝乃山、関脇朝赤龍、小結闘牙、前頭朝乃翔、朝乃若、十両泉州山、皇牙、朝乃涛、朝弁慶、朝玉勢と関取を11人育てた。65歳の定年を控えた20年九州場所後に朝赤龍に部屋を継承し、錦島を襲名して参与となった。コロナ禍でのガイドライン違反で21年6月に退職した。