演歌・歌謡曲の世界で「第7世代」と呼ばれる若手歌手が活躍しています。日刊スポーツ・コムでは「われら第7世代!~演歌・歌謡曲のニューパワー~」と題し、音楽担当の笹森文彦記者が、そんな歌手たちを紹介していきます。シンガー・ソングライターおかゆ(30)の第2回は「母が遺した歌手への夢」です。

ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)
ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)

おかゆは19年5月1日にシングル「ヨコハマ・ヘンリー」(作詞作曲おかゆ、編曲・野々田万照)でメジャーデビューした。28歳を目前にした遅咲きだった。だが、そこに至るまでの生きざまが、その歌を、まねのできない独特なものにした。

札幌市で生まれた。父は転勤続きで、妹が生まれるまで、母と母方の祖父と3人暮らしのようなものだった。思い出せるもっとも古い記憶は、スナックで歌う母の姿だった。

おかゆ 母は歌手志望でした。詩吟(漢詩や和歌に節を付けて歌う)をやっていて、全道大会で優勝しました。ある時、作曲家の先生に「素質があるから東京に来ないか」と声を掛けられたそうです。私は、母が20歳の時の子供で、生まれる前の話です。母は当時10代でした。

夢への扉が開いたかに思われたが、母の父、おかゆの祖父が猛反対した。

おかゆ おじいちゃんは昔ながらの怖い人で、いただいた作曲家の名刺をビリビリに破いてしまったそうです。その作曲家は、その後、大ヒット曲を手掛けるようになったんです。母はどういう気持ちだったのでしょう。そこから、母はお酒に走るようになり、しばらくして、私が生まれたんです。

母は幼少のおかゆを家に1人にはできず、スナックに連れて行った。お酒を飲み歌った。十八番は高橋真梨子の「ごめんね…」だった。昼間に働き、週2、3回はスナックに行った。

おかゆ 妹が生まれ、まだ赤ちゃんの妹を抱えて、歌っていた姿を覚えています。めちゃ嫌だった。店の人やお客さんは分かっていましたが、私はいつも他人の振りをしていました。

母の酒量は増した。おかゆに「おじいちゃんのせいで歌手になれなかった」と何度も話して聞かせた。当時はその話を聞くのは、ただただ嫌だった。知り合いを頼って、中学2年の時に関東に転校した。

時が過ぎて、17歳になったおかゆは、東京で貿易会社の事務員になった。休日にはギャルファッションを楽しみ、青春を満喫していた。4月下旬、携帯電話に着信があった。母からだった。よく電話は掛かってきたが、いつも避けていた。この日もそうした。数日後に再び着信があった。妹からだった。

「お母さんが死んだ」

すぐ帰郷した。アルコールが原因だった。事故死扱いで、警察に遺体が安置されていた。

おかゆ 妹から電話をもらって「えっ」と思ったけど、最初ショックはなかった。母は精神的に不安定で「ママ、早く死ぬから」と口癖のように言っていました。37歳で亡くなったんですけど、そう言われ続けていたので「今か…」みたいな感じでした。

帰京し、普通の生活に戻ったが、しばらくして貿易会社を解雇された。リーマンショックが原因だった。母の死、リストラ…。17歳で多くを失った。

おかゆ 人生って何だろうって。あまりに理不尽で生きる希望を失った。3日間ぐらい、テレビをつけっぱなしで、何も食べずボーッとしていた。外に出ないとまずいと思い、なぜか1人でカラオケに行ったんです。その時、母が歌っていた曲を歌ってみたんです。高橋真梨子さんの「ごめんね…」です。

<歌詞>消えない過ちを 後悔する前に 貴方を もっと 愛したかった…

脳裏に、手を引かれて行ったスナックで歌う母の姿がよみがえった。歌手になりたかったと何度も繰り返す母の顔が浮かんだ。

おかゆ 人生で初めて母のことで思いっきり泣きました。自分を責めました。母が嫌いと家を出て、母子のスキンシップを一切したことがなかった。大人になれば分かったことでしょうが、すごく後悔しました。今まで何もできなかったけど、何をすれば喜んでくれて供養になるのか。母の歌手になる夢を私がかなえたい、という使命みたいなものを思ったんです。それまで、夢も何もなかった私は一気に変わった。そのために生きていくと、決心したんです。

生活のためと歌の勉強を兼ねて東京・六本木のライブバーでアルバイトをしながら、片っ端からオーディションを受けた。歌手を目指して音楽を習ったことなど1度もなかった。

おかゆ (歌手になるための)選択肢が分かっていれば行ったと思いますが、当時ギャルで友達も全員ギャルで、そういう環境は周りになかった。だからガラケー(の携帯電話)でオーディションを調べるしか手段はありませんでした。

オーディションは落ち続けた。「17、18歳にしてはちょっと演歌っぽいね」と言われた。スナックで母や常連の歌を聴いて育ったことが影響していた。そんな中、転機となる「アジア歌姫オーディション」に臨んだ。母の十八番の「ごめんね…」で勝負した。やはり「演歌っぽい」と言われ、セミファイナルで落ちた。

1年後の19歳の夏。「『ウギャル』というグループのメンバーになりませんか」とスカウトされた。「ウギャル」とは、水産庁公認のプロジェクトから生まれたアイドルグループ。魚の食文化の啓発と発展を目的に結成された。海、漁師と言えば演歌。それを歌える人材が求められた。ウギャルの関係者が「アジア歌姫コンテスト」にも関わっていて、「演歌っぽい」と評されたおかゆのことを覚えていた。

ウギャル時代に八神純子(右から2人目)のラジオ番組に出演したおかゆ(左から2人目)
ウギャル時代に八神純子(右から2人目)のラジオ番組に出演したおかゆ(左から2人目)

おかゆ イベントだけでなく、東日本大震災後の漁師さんに元気になってもらうために、「兄弟船」「北の漁場」「酒よ」「祝い船」などを歌いました。楽しかったし、勉強になったけど、私の使命は母の夢だった歌手になること。その目標に向かって、1人でやっていくと決めた。その手段として選んだのが、母との思い出の場所であるスナックを巡る流しでした。

北海道・羅臼漁港の「第42回漁火まつり」にウギャルとして参加したおかゆ(左から2人目)
北海道・羅臼漁港の「第42回漁火まつり」にウギャルとして参加したおかゆ(左から2人目)

忘れもしない14年1月24日。東京・湯島の繁華街から、流しの飛び込み営業を始めた。22歳だった。ギターを抱えていたが、ウギャルの時に歌った演歌のコードしか分からなかった。夜の世界の独特の雰囲気に圧倒された。「歌を聴いてください」の声がうまく出ない。32軒連続で断られた。33軒目。やっと「兄弟船」を歌わせてもらえた。流しの第1歩だった。

おかゆ とにかくギターもほとんど弾いたことがなかった。歌わせてくださいと言って、アカペラ(無伴奏で歌うこと)ではおかしいじゃないですか。カラオケを使わしてくださいと言うと、お客さんになっちゃう。お金もなかったし、自分でギターを持って伴奏するしかなかった。歌えなくて「出ていけ!」って怒られたこともありました。すごくつらいこともありましたけど、当たり前のことで、若かったから許されたのかなと思います。

流しで訪れたお店で歌うおかゆ
流しで訪れたお店で歌うおかゆ
流しで歌うおかゆ
流しで歌うおかゆ

「なぜ流しに?」は愚問である。母の遺志を継いで歌手になるために、おかゆが選んだ最後の手段が流しだった。その先に何が待っているのか、おかゆ自身でも分からなかったが、使命感がそうさせた。

おかゆ (流しは)あまりにも無謀だと思ったので、目標を決めてやらないと、自分があきらめちゃうと思った。それで流しで出会う人数の目標を「7842人」に決めたんです。

「7842」は、母の口癖だった「七転び八起き幸せに」を数字化したものだった。母は自分を反面教師にするかのように、何度もおかゆに言い聞かせた。「何度失敗してもあきらめず立ち上がって、幸せになって」。

5年後、ついに歌手への扉が開く時が来る。扉には不思議な運命の糸が結ばれていた。(つづく)

小林幸子から贈られた着物を着て東京・浅草の路地裏に立つ流しのおかゆ
小林幸子から贈られた着物を着て東京・浅草の路地裏に立つ流しのおかゆ

◆おかゆ 1991年(平3)6月21日、札幌市生まれ。インディーズ(自主制作)で17年3月に初のソロアルバム「おんな流しのブルース」、17年12月に初シングル「女三楽章」を発表。テレビ東京系「THEカラオケ☆バトル」で2度優勝。BSテレ東「徳光和夫の名曲にっぽん」6代目アシスタント。ビクターエンタテインメントにスカウトされ、19年5月にメジャーデビュー。20年5月に第2弾の両A面シングル「愛してよ/独り言」を、21年6月に第3弾「星旅」を発表。1月26日にカバーアルバム「おかゆウタ カバーソングス2」を発表。今年2月6日に東京・有楽町のよしもと有楽町シアターで発売記念コンサート「有楽町で歌いましょう!」を開催予定。「六月ゆか」名義で他の歌手に楽曲提供もしている。趣味はファッションコーディネート、哀愁ある写真撮影、純喫巡りなど。165センチ、血液型A。