かつて、初代林家三平さんは「ヨシコさん(本当は香葉子さん)」、橘家円蔵さんは「うちのセツコが」と、おかみさんネタが鉄板だった。先日、81歳亡くなった桂歌丸さんのマクラにも、60年連れ添った妻冨士子さんが度々登場した。「妻の前では何も言えないから、楽屋で妻の愚痴ばかり」とか「文句言えば、出刃包丁で」と恐妻家ぶりで笑いを誘っていた。

 もちろん、これはあくまで「ネタ」で、仲のいいおしどり夫婦だった。歌丸さんは中学3年で落語家になったが、16歳の時に育ての親だった祖母が亡くなり、独りぼっちだった。21歳の時、4歳年上の幼なじみの冨士子さんと結婚した。実は師匠古今亭今輔さんから別の女性との結婚を勧められたが、それを断っての結婚だった。

 若手時代は苦労した。歌丸さんは師匠に破門され、冨士子さんと2人で化粧品のセールスに歩き、家では内職もした。その後、兄弟子桂米丸の弟子になる形で復帰し、「笑点」のレギュラーメンバーとなってからは、多忙な夫を支えた。

 ネタでは恐妻として登場するだが、表舞台に出ることはほとんどなかった。落語芸術協会の後輩で、「笑点」のレギュラー仲間の三遊亭小遊三も「会ったことはなかったけれど、歌丸会長の旭日小綬章を祝う会で、初めてお会いしました」という。07年、受章と金婚式を兼ねた祝いの会。公の場で夫婦そろって登場したのは初めてだった。小遊三も「草笛光子さんに似た、きれいな女性がいるなと思っていたら、それが冨士子さんだった。それぐらいスタイルが良くて、美人でした」。

 寄席にもほとんど顔を出したことがなかった。歌丸さんは恐妻家どころか、何かあっても口を出させることもなく、「おめえは黙ってろ」という亭主関白だった。弟子の桂歌春は「客席で見るということはありませんでした。楽屋に用があって、ちょっと顔を出すことはあっても、客席で歌丸の高座をみることはなかった」と証言する。

 しかし、16年5月、歌丸さん最後の出演となった「笑点」の生放送に、観客の1人として客席に座っていた。歌丸さんがわざわざ席を用意させたという。歌丸さんは「病気のデパート」と言われるほど、入退院を繰り返したが、冨士子さんは毎日、家のことを済ませると、病院に行き、昼ごろから夕方まで付き添っていたという。歌丸さんが亡くなった直後、富士子さんと会った小遊三は「万事、なにか飲み込んだような。さすが年上という余裕がある。やっぱり、いると安心させてくれる」。歌丸さんにとって最大の宝物は冨士子さんだったのかもしれない。     【林尚之】