藤井聡太2冠の活躍で、将棋界に熱い視線が注がれていますが、60年前に将棋界を盛り上げた大物歌手がいました。名曲「王将」を歌った村田英雄さんです。名曲やヒット曲の秘話を紹介する「歌っていいな」の第7回は「王将」の登場です。1961年(昭36)に発表された同曲は、人気棋士の阪田三吉さんを題材に勝負の世界の厳しさを歌って大ヒットしました。ところが村田さんを始め、制作関係者には、「将棋」にまつわる、ある“秘密”がありました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

1961年(昭36)に当時29歳だった作曲家の船村徹さんは、大物作詞家の西条八十さん(当時68)から「王将」の歌詞を手渡された。自宅に戻り、めったに手にすることのない将棋の駒を盤面に立てて並べてみた。軽く息を吸い込み「フッ」とコマに吹きかけた。すると、「王将」も「歩」もパラパラと倒れた。「なるほど。うちの駒が安物だからかもしれないが、本当に飛ぶんだなあ」。船村さんは駒が吹き飛ぶ様子を目にして、ようやく曲のイメージを膨らませ始めた。

実は、駒は持っていたが、将棋はほとんど知らなかった。「王将」の大ヒット後、NHKの将棋番組に無理やり出演させられた時も、飛車と角を間違い、対局者に「それ飛車ですよ」と小声で注意されたほどだった。

将棋を知らなかったのは「王将」を歌った村田英雄さんも同じだった。曲のヒットで将棋連盟から名誉初段の称号を得たが、やはり駒の動かし方は知らなかった。ちなみに村田さんは、「柔道一代」「姿三四郎」を歌って、柔道でも名誉初段が与えられたが、技の名前も知らなかった。それでも、勝負にかける男の意気地はよく分かった。

「王将」がヒットするまでの3年間、村田さんの曲はあまり売れなかった。29歳まで身を置いた浪曲界では、1回のステージで5万円を稼ぎ出した。大卒の初任給が約1万5000円の時代だ。その声にほれ込んだ作曲家の古賀政男さんの勧めで飛び込んだ歌謡界だったが、自信作「無法松の一生」も「人生劇場」も発売当時は思ったようなヒットはしなかった。「50分の浪曲は大丈夫なのに、なぜ3分間の歌に苦労するんだ」。

悩み抜いた村田さんは、スタッフの勧めで、若い船村さんの作品を歌うことにした。門下生村田の謀反のような行動に古賀さんは、「浪曲出身なのに義理も人情もないのか!」と怒った。それだけに、村田さんも船村さんも失敗は許されなかった。

緊張のレコーディングだった。「うまれ浪花の 八百八橋」の歌詞を「ヤオヤバシ」と歌った村田さんに、指揮棒を振っていた船村さんは、慌てて耳打ちした。「ハッピャクヤバシだよ」。村田さんらしい大胆な間違いに立ち会った西条さんも苦笑いした。

実は、作詞した西条さんも将棋のことは全く知らなかった。当時、西条さんは妻を亡くしたばかりだった。そこで、(昭和初期に活躍した棋士の)阪田三吉さんの妻、小春さんのけなげさを、苦労をかけた自分の妻の姿に重ね合わせて作詞した。

将棋をテーマにした歌の最高傑作「王将」は、将棋を知らない男たちが、三者三様で駒に注いだ情熱の産物だった。【特別取材班】

※この記事は97年12月11日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信します。