来月5日に“ロックの聖地”の東京・新宿ロフトでフリーアナウンサー古舘伊知郎(64)が、トークライブ「戯言(ざれごと)」を開く。4月に母校立大の客員教授に就任し、講座「現代社会における言葉の持つ意味」を担当している。テレビ朝日のプロレス実況アナウンサーとして売れっ子になった古舘は84年に退社してフリーになった。【取材=小谷野俊哉、山内崇章】

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1977年(昭52)にアナウンサーになりたくてテレ朝に入って、大喜びしていたら、自分が所属した会社がありえないオリンピック(80年モスクワ五輪)の放送権を得た。それが不運にも(ソ連のアフガニスタン侵攻で)日本も参加しないっていう低調なオリンピックになった。

男子水泳自由形1500メートル、1レーンから8レーンまで、全て東ドイツですってやってたんですよ。それを中継するテレ朝のつらさはなかったと思います。共産圏のオリンピックを中継してるわけですから。だけど、とんでもないことが起きた。

それは後で知ったことで、入社したのは男性アナウンサーが5人、女性は4人、トータル9人というのは前代未聞でした。今より入社が難しい時代で、僕の上の代なんか募集してなくて、男女合わせて男性1人のみとか、同期が1人もいない、自分以外いないっていう、そういうのが普通だったんですよ。そこに大量に9人が入れた。中堅からベテランがオリンピックシフトになると聞いて、レギュラーのスポーツプログラム、競馬とか、プロレスとか大相撲とか、そういうものに穴が開いたら困るから。その当時はありえない、オイルショックの後の1977年(昭52)に、男5人を入れてくれて、だから運が良かったんです。

(自分は)そのうちの1人で、どさくさで入ったようなもの。で、プロレスの実況をやって、そりゃあもう、調子に乗ったんですよね。そこで(会社を)辞めまして。まだ29歳でしたね。不安は、ありました。だから、不安をエネルギーに変えました。

いくら結婚してない、子供いない、独身貴族でも、やっぱり7年間、テレビ局にいて、つらい思いも、おいしい思いもしてるわけじゃないですか。固定給があって。だから、フリーなって売れなくなったらどうしようと。せっかくアナウンサーになれたのにとか…。そういう不安はあったけれど、やっぱり若くて調子に乗ってる時って、不安をエネルギーに変換して、不安がモチベーションになって頑張ろうって思うもの。

「お前、絶対1年でつぶれる」っていう風にプロデューサーに言われれば、絶対1年じゃなくって5年はつぶれないって。その言われたことをエネルギーにしたし、人を恨むこともエネルギーにしました。今思うと、そうやって意地悪言われたことって、すごいためになってるんですよね、頑張ろうと。祝福されたらちょっと、止まっちゃうじゃないですか。だから冷や水を浴びせられ続けたんで、続いた。

29歳でプロレスの実況でちょっと売れて、調子に乗って辞めるっていうことは、今と違って考えられない時代なんですよ。NHKで超~有名になって、民放に雇われ、フリーになる方とかいますけどね。久米(宏)さんだって30歳超えて、大ヒット番組「ザ・ベストテン」とか、いろんな番組を当てまくった果てにフリーになってるわけですから。僕はちょっと若すぎて、プロレスの実況アナがフリーになるっていうことは、会社の中でも、何? って感じで、全く引き留められなかった。その後もプロレス実況を、1年か2年やったかな。だから、会社があまり評価してくれてなかったというのもこれ幸い。

エンターテインメントっていう都合の良い言葉はなかったんで、プロレスはスポーツなのか、真剣勝負か、八百長かっていう二言論の時代ですからね。真ん中のエンタメって言葉がないんですよ。いい言葉が見つかってない時代で、プロレスっていうのはちょっと中途半端な扱いで、金曜ゴールデンタイムで、ものすごい25%を超えるような視聴率をとってるから、コンテンツとしてはおいしい。

だけれども、どこかでプロレスをね、ちょっと、迫害するような偏見があったんですよ。面白いからあるプロレスラーのポスターを、アナウンス部にでっかく貼ると、すぐはがされて大相撲の番付になってましたからね。だから天井に貼ってやったんですよ、長州力の。そしたら次の日、はがされてました。やっぱり、まだそんな時代だったんですよ。

どちらかというと、プロレスの実況で、訳のわからない言葉遣いで俺が怒られたように、会社があまり俺を高く評価してくれないのに、外が面白がってくれたんですよね。雑誌の取材が殺到したり、テレ朝の広報に古舘を取材させろとかそういうのがいっぱい来ました。広報の人が「何でお前にこんなに来るの?」って。「お前が働きかけてるのか?」って言われて…。

働きかけるも何も…どうしたらいいんですかと。仕事しているだけですよと言ったんだけど、会社はちんぷんかんぷんだったと思う。だから退職届を出した時も「大丈夫かよ、オイ」で終わりでしたから。

編集局長に喫茶室に呼ばれましてね、当時の。「お前フリーなんだって? 大丈夫かよ? お前は独身だからよかったな」と。その若さで何事なのって心配されてましたから。だから、そういうのもモチベーションになりました。俺、全く評価されてないって(笑い)。辞めて不安はありました。結果的には、いつも安心できないというのがちょうど良い加減だったのかなあと思います。(続く)

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◆古舘伊知郎(ふるたち・いちろう)1954年(昭29)12月7日、東京都生まれ。立大卒業後の77年にテレビ朝日入社。同8月からプロレス中継を担当。84年6月退社、フリーとなり「古舘プロジェクト」設立。85~90年フジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE、SUPER」司会。89~94年フジテレビ系「F1グランプリ実況中継」。94~96年NHK「紅白歌合戦」司会。94~05年日本テレビ系「おしゃれカンケイ」司会。04~16年「報道ステーション」キャスター。現在、NHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」(木曜午後7時57分)司会など。血液型AB。