コロナ禍での裁判を、初めて取材した。

今月21日に東京地裁で開かれたシンガー・ソングライター槇原敬之(本名範之)被告(51)の初公判。著名人が被告の公判は、毎回少ない傍聴席整理券を求めて多くの傍聴希望者が集まることが通例となっているが、この日も516人の希望者がいた。今回は同地裁内での整理券の配布となったが、リストバンドをスタッフから手渡され、それを自らで付ける形で“接触”を回避した。

同地裁での配布の場合、通常は整理券を受け取り、締め切り時間まで並んで待つ形だったが、リストバンド形式のためその場にとどまる必要性もなく、抽選の発表時間には、同所での掲出だけでなく、ホームページ上でも発表されるなど、3密を避ける形は徹底された。

また今回の公判は、同地裁内で最も大きく、98席ある「104号法廷」で開かれた。1列3席の中、1席ずつ座る形の措置がとられた。公判は、言葉にしなければ成り立たない部分もあり、裁判長をはじめ、検察側も弁護士側も、槇原被告もマスクや、フェイスシールドなどを着用し、飛沫(ひまつ)を防ぐ形だった。そして、心なしか裁判内でのやりとりも“簡素化”されている印象を受けた。もちろん事件の性質や、裁判の内容によるだろうが、事前に確認し合える部分は確認して、公判の時間を短縮しているように感じた。

もっとも「取材」ということは置いておいても、マスクをしているため、傍聴する側からすると表情が見えづらい部分がある。もちろん、表情によって裁かれる内容が変わることはないが、例えば被害者や被害者家族がいる場合の裁判で、表情を感じ取れないのは良いことなのか、悪いことなのか…。誰のせいでもないが、そんなことさえ憎く感じるほど「コロナ」って、一体何なのだろうか…。【大友陽平】