寅さんシリーズで知られる松竹が創業100年を迎えました。女優の起用、音声入りのトーキー、そしてカラー映像…日本映画の進化の節目を担い、撮影所名から「大船調」と呼ばれた作風は現代の恋愛ものやホームドラマの原型となりました。その軌跡と奇跡を3回の連載で振り返ります。

   ◇   ◇   ◇

日本の映画撮影の始まりは1898年(明31)の短編「化け地蔵」(撮影技師・浅野四郎)と言われる。松竹創業者で、社名の由来となった大谷竹次郎と白井松次郎は、その頃、京都阪井座の興行主だった。

創業時に詳しい大角正松竹撮影所会長(66)は「白井、大谷もこれからは活動写真(映画)の時代と確信していました。ただし芝居興行の経験から、準備の大切さを知っていた。映画創業前の10年間の記録を見ると、出張伝票だらけです。幹部はもちろん、それこそ全社員が欧米視察に出掛けていたんです」と話す。

創業8年前には女優養成所を設立。歌舞伎同様女形が主流だった当時としては革命的な発想だった。その下地があったからだろう。蒲田撮影所オープン直後に入社した女優の栗島すみ子は「清楚(せいそ)な美貌」であっという間に人気者となり、1日4000枚のブロマイドを売り上げた。

歌舞伎の舞台をそのまま撮ったような当時の「時代もの」をセリフのわかりやすい「時代劇」に変えたのも蒲田撮影所長・野村芳亭だった。後にライバル東映の十八番となったチャンバラ映画の原点である。

「時代劇の『時代』は、歴史上の過去を指すのではなく、新たな『時代』を切り開く映画という意味で命名したそうです」

芳亭の孫に当たる野村芳樹プロデューサー(71)が明かす。父は「砂の器」などで知られる芳太郎監督。3代続く松竹撮影所育ちだ。大谷信義現会長は創業者の孫。迫本淳一現社長も城戸四郎元社長の孫であり、脈々と続く血縁関係が大船調に代表される「色」が定着する一因になっている。

音声が入る初の本格トーキー映画は「マダムと女房」(31年)。主演の田中絹代は甘く色気のある声で評判となり、戦争をまたいで看板女優となった。

半世紀後、62歳になった田中を撮影所に呼び戻したのが山田洋次監督(88)だった。「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(72年)に登場する旧家の奥様役。監督は田中が撮影所に帰ってきた日を鮮明に覚えている。

「絹代さんが来た朝、撮影所中のスタッフが門のところで待ちました。年配のスタッフは『先生!』と呼んで手を取り合い、涙ぐんでいた。カメラを前にすると小柄だけど何ともすごい存在感がある。ドキドキしました。アップで撮るとき、ほつれ毛が1本。結髪さんを呼ぶまではないと思い『さわっていいですか?』と聞くと、絹代さんは『いいですよ。いい監督さんは女優の髪にさわりますよ』と。向こう側に溝口健二の顔が浮かんで、怖い感じさえしました」

溝口健二は田中の出演作を15本撮り、「西鶴一代女」(52年)などの名作を残した伝説の存在だ。「男はつらいよ」も10作目を数えていた山田監督だが、田中の所作に巨匠の影が重なり、震える思いがした。

戦後最大のスター、美空ひばりも東映と専属契約を結ぶ58年までは、出演作のほとんどが松竹だった。野村芳樹氏が振り返る。

「不思議な写真が残っているんです。セーラー服姿のひばりさんに私が抱っこされているんですよ」

父・芳太郎監督の「伊豆の踊子」(54年)に出演したときの逸話で、17歳のひばりは横浜の精華学園高等部に通っていた。全員が台本なしで読み合わせができるまでリハーサルを繰り返す丁寧な手法。すでに女王の風格を備えていたひばりも、演技のいろはを松竹に教わったという自覚があったようだ。新宿の劇場で舞台あいさつに立ったひばりは突然監督を壇上に呼んだ。「自分のことより先生(監督)のために心臓がドキドキした」とけなげに話し、次作「青春ロマンスシート 青草に坐す」でも芳太郎監督を指名した。

女優を輝かせる伝統は「君の名は」3部作(53、54年)で一大ブームを巻き起こす。主演の岸惠子(88)は「あの映画で私は怪物になりました」と振り返る。(つづく)

◆映画の始まり 19世紀後半から動く写真の開発が始まり、93年に米国のトーマス・エジソンが1人でのぞき見るキネトスコープを発明。95年に仏リュミエール兄弟が初めてスクリーンに動画を投影した。

◆松竹蒲田撮影所 20年6月開所。ハリウッドから技術者を招き、スター・システム(俳優中心の映画作り)を導入して日本映画草創期をリードした。周囲の町工場の騒音から36年には大船撮影所に移転した。