寅さんシリーズで知られる松竹が創業100年を迎えました。女優の起用、音声入りのトーキー、そしてカラー映像…日本映画の進化の節目を担い、撮影所名から「大船調」と呼ばれた作風は現代の恋愛ものやホームドラマの原型となりました。その軌跡と奇跡を3回の連載で振り返ります。

 

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NHKの本放送が始まったのは、ヒット作「君の名は」が公開された53年である。映画観客数が11億2700万人でピークを迎えた58年には受信契約100万人を突破。映画とテレビは対照的に下降と上昇の曲線を描いていく。

「60年代に入ってもしばらくの間はつまんない映画でもお客は来た。監督もスター俳優もいいかげんになっていった。こんな乱暴な映画で入場料を取っていいのだろうか、という思いは早い時期からありました」

山田洋次監督(88)は振り返る。テレビ局からの依頼でドラマ脚本も書いた。

「100本くらい書きましたね。演出家によっては気に入らない作品になったけど、ともあれ『形』になった。映画だと脚本のまま終わることも多いから、いい経験になったと思う」

TBS「泣いてたまるか」シリーズなどの作品があり、68年には原案・脚本を手掛けた連続ドラマ「男はつらいよ」がフジテレビで放送された。「寅さん」はテレビから生まれたのだ。

映画版「寅さん」が6作を数えた71年。各社が互いの専属監督、俳優の引き抜きを禁じた五社協定が消滅する。入社したばかりの野村芳樹プロデューサーは混然としたこの時期らしい光景を覚えている。

「人生劇場」(72年)撮影中のことだ。東映京都から来た加藤泰監督と東宝で活躍していた森繁久弥が演出を巡り、つかみ合いのケンカを始めた。大映の田宮二郎が間に入る。野村氏は「2人より一回り若い田宮さんが『ここは何とかこの田宮にお預けください』と割って入るんですが、収まらない。不謹慎ですが、映画の1シーンを見ているようで、笑っちゃいそうになりましたね」と振り返る。

大映の倒産で、同社の時代劇を支えたスタッフが松竹の京都映画撮影所に流れたのもこの年だ。松竹撮影所の大角正会長(66)は「スター重視で華麗な殺陣が売りの東映とは対照的に、監督主導の大映は陰影のある重厚な映像で対極をなしていました。何と言っても黒沢明の時代劇を作ったスタッフですから」と言う。

テレビでは72年の「必殺仕掛人」に始まるシリーズ独特の光と影の演出となり、やがては山田監督の「たそがれ清兵衛」(02年)を支える。創業時の野村芳亭撮影所長が造語した「時代劇」はこうして引き継がれた。

文字通りの看板となった「男はつらいよ」は30作目の「花も嵐も寅次郎」(82年)でギネスブック国際版に認定され、95年の第48作「寅次郎紅の花」まで続いた。

妹さくら役の倍賞千恵子(79)は「昨年の記念作(「お帰り寅さん」)では、久々の柴又の撮影でものすごく緊張していたんです。でも、立った瞬間にふっと向こうに『さくら像』が見えて、すごく変な感じがしました(笑い)。『寅さん』は1作目で終わるはずが、続けられたのはやっぱり毎回当たったから」という。

粗製乱造時代を知る山田監督の丁寧な映画作りがシリーズ長寿の根底にあった。倍賞は「遠くを歩いている人とか、窓からちょっと顔を出している人の演技が生きていないと山田さんはOKを出さない。一貫して変わらない。それが人の情の厚さやこっけいさを映し出すんですね」という。

街中で「さくらさん」と呼ばれることを苦痛に感じた時期もあった。

「渥美(清)ちゃんにそれを言ったら、『おまえ何生意気なことを言うんだ。役者が役名で呼ばれるのは褒められてるんだぞ』と。そのとき、もっと大事にしなきゃと思いましたね。渥美ちゃんはとにかく役作りに全力投球。その分、普段はものを持つのが大嫌いでいつもポケットのたくさんついた服を着ていました」

その渥美が96年に突然亡くなる。知らされたのは家族葬が終わった後だった。

「山田監督から電話で知らされ、言葉が出なかった。何にも考えられなかった。しばらくして、リリーさんに知らせなきゃって」

リリーとは4作品でマドンナを務めた浅丘ルリ子(80)のことだ。共演者、そして映画ファンの心に残る渥美清は「寅さん」のままであり、それが今に連なる松竹大船調のイメージに重なっている。(おわり)【相原斎】

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◆男はつらいよ 69年の映画第1作から95年の「寅次郎紅の花」まで48作。97年の「寅次郎ハイビスカスの花特別編」と19年の記念作「お帰り寅さん」を合わせると全50作となる。マドンナ最多出演はさくらの長男・満夫の相手役と、やや変化球ではあるが後藤久美子の5回。これに浅丘ルリ子の4回、竹下景子の3回が続く。2回出演は栗原小巻、吉永小百合、大原麗子、松坂慶子と4人いる。