松竹が大手映画会社としては初めて創業100年の節目を迎えた。その歴史を振り返る取材で、寅さんシリーズでおなじみの倍賞千恵子(79)に話を聞く機会があった。

幼少時から「のど自慢」荒らしとして知られた倍賞は、松竹音楽舞踊学校を首席で卒業し、SKD(松竹歌劇団)に入団。ダンサーの逸材として期待されていた。本人も映画女優になる気はさらさらなく、SKDデビューから間もなく松竹映画にスカウトされたことは不本意だったという。

「撮影所に通うようになってから、しばらくの間はSKDにも籍があったので、休みの度に浅草(国際劇場)に行って、袖から見ていました。私が帰るポジションが無くなるんじゃないか。ハラハラしていましたね。撮影所では、暗いところでここに立ちなさい、ここでセリフを言いなさいって言われるのがイヤでイヤで仕方なかった。撮影が早く終わった日は江ノ島に行って、奥の人がいないところで『バカヤロー! 映画なんか大嫌いだ』と叫んでいましたね」

次第に映画にひかれたのは、創業以来培われた「女優を育てる」撮影所の空気だった。佐田啓二と有馬稲子が主演した映画「雲がちぎれる時」(61年)では、バスガイド役だった。

「五所平之助監督は毎朝ロケバスに乗ると『倍賞! 前に立って、君が見えることをガイドしなさい』と。自然とバスガイド役が身に付いたんですね。監督は有馬さんのハンカチの使い方にも細かく指示を出していました。端で見ていて、ああ女優さんはああいう風にハンカチを使うんだって、いつの間にか好奇心がわいていったんです」

同じ年に撮影された「水溜り」では井上和男監督の優しさに触れた。

「私が育った下町(北区滝野川)の話だったから楽しかったんですけど、大きな水たまりに倒れるシーンがあって、その時、そこにイトミミズがいたんです。私長いものがダメで、泣きながら『絶対できません』と。そしたらバンさん(監督の愛称)は撮影を止めて、そこをキレイにどぶさらいして、新しい水を入れてくれたんです。それで『こうやればいいんだ』と言って自らびしょぬれになって手本を見せてくれたんですね。そういうことが重なって、どんどん映画が楽しくなりました。あれだけ帰りたがっていたSKDがいつの間にか私の中で小さくなっていきました」

水たまりと言っても小さな池程度の大きさだったそうで、ミミズ除去に止まらず、清掃して水を入れ替えるのはかなりの作業量だったはずだ。

日本初のトーキー映画「マダムと女房」(31年)の田中絹代、国民映画となった「君の名は」(53年)の岸惠子…数え上げれば切りがないが、女優を輝かせる松竹の伝統の一端をのぞかせる逸話だった。【相原斎】