音楽プロデューサー酒井政利さんが16日に心不全で亡くなった。85歳だった。歌謡界大全盛を支えた、間違いなく名物プロデューサーだった。携わったレコード、CDなどの売り上げ累計は8700億円。1枚1300円のシングルCDで換算すると、ミリオンヒットを実に670作品手掛けた計算になる。

酒井さんとの付き合いは長い。96年6月に酒井さんがソニー・ミュージックエンタテインメントを退職するという独自記事を書いた。なんと記事が掲載された日の、ソニーの株価が下がり、日本経済新聞にも解説記事が掲載された。市場が敏感に反応したほど、酒井さんの存在はすごかった。後日、酒井さんに記事を書きお騒がせしましたとあいさつしたところ、「いえいえ、門出を祝してくれて、ありがとうございました」と感謝された。

酒井さんが携わった名曲の数々の中で、思い出深いのが山口(三浦)百恵さんが歌った「いい日旅立ち」である。名曲誕生の秘話を紹介する「歌っていいな」という連載をスタートさせることになり、第1回で同曲を扱うことになった。すぐに酒井さんを取材した。

「いい日旅立ち」は78年(昭53)11月に発売された。前年の77年初秋に、日本国有鉄道(略・国鉄、現JR)から「キャンペーンソングを作ってほしい」と、百恵さんが所属していたソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に、広告代理店を通じて依頼があった。

百恵さんは当時、20歳を前に森昌子、桜田淳子の中3トリオで競い合っていた時期を卒業し、独自の道を歩み出していた。百恵さんを担当していた酒井さんは(当時42)は「山口百恵を美空ひばりに次ぐ国民的歌手に育てたいという意識が社内に芽生えていた時期で、国がスポンサーでもある国鉄の話は最高のきっかけになる」と感じた。

ソニーはこの依頼を快諾し、女性アーティストなら百恵さん、男性なら浜田省吾(当時24)を提案した。国鉄は70年に「ディスカバー・ジャパン」(日本美の再発見)をうたい文句に、国内旅行ブームを巻き起こすのに成功していた。ジェリー藤尾の名曲「遠くへ行きたい」が効果的に使われていた。77年はその第2弾の企画で「今回は女性歌手で」という意向で百恵さんが抜てきされた。

しかし、当時の国鉄は赤字が膨らんでいた。制作費、宣伝費の予算はほとんどなかった。酒井さんとしては国鉄が企画を断念すれば、百恵さんの国民的歌手構想もつぶれてしまう。

国鉄は「キャンペーンソングの協賛」を一般企業に依頼した。車両造りなど密接な関係にあった「日立」と、旅行会社「日本旅行」の2社がタイアップにつき予算面をクリア。企画はゴーサインとなった。酒井さんは「これで百恵は国民的歌手に1歩近づく」と2社の協賛に感謝し、タイトルに“日立”と日本旅行の略の“日旅”を入れ「いい日旅立ち」にすることを決めた。作詞作曲は谷村新司(当時29)に依頼した。

同曲は79年に国鉄、日立、日本旅行がスポンサーとなりそれぞれ1カ月間、テレビで流れた。百恵さんにとってハード路線の「絶体絶命」と「美・サイレント」に挟まれた曲で、「地味だ」「時代錯誤だ」との批判もあったが、年が明けると大ヒット。今も老若男女に受け入れられ名曲として歌い継がれている。

酒井さんが考えたパズル的なタイトルの発想は他でも使われた。女性デュオPuffyの「これが私の生きる道」は、漢字だけを抜き取れば「私生道」。同曲のタイアップ企業「資生堂」を織り込んでいる。

酒井さんが携わった名曲の数々を語ればキリがないが、百恵さんは酒井さんが目指した通り、国民的を通り越して伝説的な歌手になっている。【笹森文彦】