時代劇を作り、残し続けていこうという、中井貴一(60)の揺るぎない信念に、改めて触れた思いだった。

中井は1日、都内で行われた主演映画「大河への道」(中西健二監督、5月20日公開)完成披露試写会に、落語家の立川志の輔(68)とともに登壇。志の輔が11年に初演して以来、再演を繰り返してきた同名の落語を「私が無理を言いまして、志の輔師匠に、何とか映画化させてくれないかとお話を持っていったところからスタートしました」と、自ら企画を務めて映画化したと明かした。

中井は壇上で「大河への道」の映画化に至る道のりを語った。16年に、志の輔の落語4作を1本にまとめて舞台化した「メルシー! おもてなし~志の輔らくごMIX~」に主演。その際、舞台を見に来た友人から「大河への道」の存在を伝えられ「中井さん、やった方が良いですよ」と勧められたという。

その後、志の輔と対談の機会があり「ぜひ拝見したいんですけど、おやりにならないですか?」と聞くと「近々、やるつもりはないです」と言われた。ただ、志の輔から特別に資料用に撮ったDVDを借りて、見て「これは映画になる。師匠の落語は映像が頭の中に映ってくる」と映画化を持ち掛けたという。

記者は、17年6月に中井にインタビューしている。当時、俳優人生で初めて織田信長を演じた映画「花戦さ」が公開中で、作品を軸に心血を注ぐ時代劇、そしてドラマや映画の製作現場で、作品作りの足かせになっていると問題視される「コンプライアンス」について話を聞いた。そして、ウェブ特集企画として5回、連載した。

中井は「灯火のようでも、きちんとした時代劇を一生懸命、作り続けていくことが大事」と語ったが、その裏で、まさか志の輔落語を映画化しようと動いているとは当時、思ってもみなかった。ただ「現代劇で描くと拒絶されてしまうことを、時代劇というオブラートで包むことで、お客さまは『昔の人って、こんなふうに考えていたのかもしれない』と思ってくれる。人の心を伝えるアイテムとして、時代劇にした方が心にしまいやすいんだと思う。それが時代劇の強みだと僕は思っています」とも語っていた。

「大河への道」は、千葉県香取市で郷土の偉人・伊能忠敬を主役にした大河ドラマの企画開発が進む中、1821年(文政4)に史上初の日本地図を完成させたのは、あの伊能忠敬ではなかったという、驚くべき新事実が明らかになる。一体、初の日本地図は誰が、どのように作ったのか…歴史に埋もれてしまった秘密の物語が隠されていた物語。伊能忠敬が出てこない画期的な物語の上、現代パートと過去パートを描く部分に、中井は「もしかすると、時代劇を、これから先に残していく方法の1つとして、この手法を使わせて頂けるかもしれない」と魅力を感じたのだろうか。

時代劇の危機が叫ばれ出して、久しい。10年8月に時代劇制作プロダクション「映像京都」が、テレビの時代劇減少や後継者不足などを理由に解散。1971年(昭46)に大映が倒産し、大映京都撮影所の撮影、照明、美術などの技術者集団が翌72年に立ち上げた名門の解散は、業界内に衝撃を与えた。そこに追い打ちをかけるように、11年にはTBS系「水戸黄門」が終了。地上波の時代劇レギュラー番組はNHK大河ドラマのみとなった。セットやかつらなど美術の費用もかさみ、制作費は現代劇よりかかる一方、視聴者の年齢層は高くスポンサーがつきにくいという事情が、その背景にあるという声は少なくない。

その中、中井は14年の映画「柘榴坂の仇討」に主演するなど、そうした状況に真正面から向き合ってきた。その流れの1つが「花戦さ」への出演だった。「役者のことは、僕たちが後輩に『お前、そんな動きやっていたら、おかしいだろう』と言って継承していく」と、演じる上での所作などの継承を誓った。一方で「技術職のことは、僕たちは到底、口を挟めることじゃない。とにかく、知識を持っている人たちがスタッフの中から、いなくなった瞬間に、本当に時代劇の質が落ちるんですよ」と、制作スタッフの存在が危ぶまれることに危機感を訴えていた。

そんな中井が、自ら企画して作り上げた映画が「大河への道」だ。完成披露試写会の壇上で、中井は「この話は企画だけで『俺は出ません』と言った。キャスティングだけ、やらせていただいて、完全に裏方に徹しようと思った」と語った。その上で「他のプロデューサーが鼻で笑うように『何、言ってるんですか、出ないわけないでしょう』みたいに言われた」と苦笑した。自らが演じるよりも、裏方に徹する…そこまで時代劇に心血を注ぐ、今の思いと今、時代劇をどう思っているのかを、改めて中井に聞いてみたい気持ちでいっぱいだ。【村上幸将】