フジテレビの金光修社長(67)の著書「あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965」(03年)と「東京ビートポップス~音楽も街も人もワクワクしていたあの頃」(10年)が、扶桑社から電子書籍で復刊された。

80年代から90年代にかけて「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」などを手掛けて、フジテレビに黄金時代をもたらした“伝説の編成マン”。昨年6月のフジテレビ社長就任以来、初めてスポーツ紙のインタビューに応えて、その思いを明かしてくれた。

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94年の「Revolution No.8」は、今から思うと飛んでもない番組だった。

「Windows95が出来て日本にインターネットの環境が整い始めたのが95年なんです。そこから、パソコンがちょっとずつ入ってきた。その1年前に、インターネットの生番組やってるんですよ。動画配信をロンドンからとかやってて、もうほんとに先端的だったんです。だから、役人とかマイクロソフトの人とかも、毎週のように見に来ていました」

もう一つ画期的なのが、MCをやっていたのが今や報道番組のご意見番のモーリー・ロバートソン(59)ということだ。東大卒の外国人の論客というのが現在のイメージだが、当時はロン毛のイケメン。電脳アイドル千葉麗子も一緒に番組を進行している。

「モーリー・ロバートソンさんのテレビ初登場。ラジオで面白そうだなって。なんかすげえ、頭いいやつがいるって呼んでねえ。私のことを覚えてるかどうか、分からないですが。土曜の深夜90分番組を半年やりまして。世の中的には早すぎるから、誰も分からないんですよ。その時、バラエティーのプロデューサーから『訳分からねぇ番組やってんじゃねぇ』って怒鳴り込まれましたもん(笑い)。すごい画期的だったと思います。通信回線を使ってロンドンからピーター・ガブリエルの動画を配信させたりとかして。あと多分、日本で最初にインターネット通販やって、それでディノスの商品を売ったんですよ。こういうこともできるって。だけど、深夜だったし、インターネットの番組だから話題になりようもない。みんなついて行けなかった。視聴者が何やってんだか分からないっていう番組で、社内の一部の人間にはすごく分かってもらって、いまだに言うやつはいますけどね。『すごかったね』って」。

テレビ界では注目を集めることはなかったが、経済界や行政からは評価された。

「ロンドンとやりとりして、いろいろやったんですよ。だけどフジテレビの技術の人も分かってくれなくて、インターネット回線なんて引けないわけですよ。専用回線を引いてくれって言っても、総務も分からないんだから。でも結構、役所からとか、経済界から評価受けましたよ。テレビ業界から受けなかったけど(笑い)。そういう意味では、何から何にまで、いろいろなことをやりましたね」。

(続く)

◆金光修(かねみつ・おさむ)1954年(昭29)10月28日、東京・石神井生まれ。1978年(昭53)早大第一文学部を卒業して、西武百貨店入社。83年フジテレビ入社。編成担当として「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「カルトQ」「ワーズワースの庭で」「バナナチップスラブ」「ラスタとんねるず」などの番組を手掛ける。97年CS放送立ち上げのためジェイ・スカイ・ビー派遣され、98年に「スカイパーフェクTV!」を立ち上げる。99年BSフジに出向。12年執行役員。13年専務。13年フジ・メディア・ホールディングス(FMH)常務。15年FMH専務。19年FMH社長。21年フジテレビ社長を兼任。