ニッポン放送が「オールナイトニッポン(ANN)」の放送開始55周年を記念して、特別番組「オールナイトニッポン55時間スペシャル」を17日午後6時から19日深夜1時まで、55時間にわたって放送する。高嶋ひでたけ(80)は、放送開始の1967年(昭42)10月より前の65年4月にアナウンサーとしてニッポン放送に入社。創生期のANNのパーソナリティーを務め、19年4月から「オールナイトニッポン月イチ」(日曜深夜午前3時)のパーソナリティーを、今も務めている。現役最長ANNパーソナリティーの高嶋に、ANNの歴史と魅力を聞いてみた

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「ANNは一番早く始まった深夜放送だった。それで、他の局も深夜放送をやるようになっていった。僕が入社した頃は、アナウンサーって、そんなに活躍していなかったの。だけど、67年の10月に、後の社長で編成部長だった羽佐間重彰さんがANNを始める時に、結構暇してた局アナをDJ(後にパーソナリティー)に起用したんです。夜中の放送に独特の吸引力があって、リスナーからのはがきが殺到して一気にブームになったんです。早かったね」

羽佐間氏は放送が始まってから半年間はCMをオンエアしなかった。

「引き合いはたくさんあったんですよ。営業マンはCMを出したいって言ってるのに、そこを抑えていた。半年後にドンと一流のスポンサーがずらりと並んだ。一流企業ばっかりで、始まる前は訳がわからない事ばっかりだったけど、誰がDJをやっても大丈夫な番組になった」

高嶋はスポーツアナウンサーだったが、自ら希望して69年1月にANNの木曜深夜のDJになった。

「私は野球の実況アナウンサーだったんですよ。ナイターを終えて会社に帰ると深夜0時近い。家が神奈川の横須賀で、会社を出てANNを聞きながら帰った。そして、直訴して出たいといったんです。ちょうど先輩の“今仁の哲ちゃん”こと今仁哲夫アナウンサーが体調を悪くして代わりを探してたらしくて『ちょうどいい』って起用されたんです」

70年3月に降板したが、同年10月に水曜担当として復帰。71年4月に木曜に戻り72年1月まで続けた。

「当時のANNはアナウンサーやディレクター、いろいろな人がDJを務めた。初代DJの一人の高崎一郎さんは、元々はプロデューサーでした。高崎さんの専属アルバイトが、人気DJだった亀渕昭信さん。早大生のバイトから、僕の1年前にLF(ニッポン放送)に入社して、制作ディレクターをやっていた。“カメちゃん”は、すごく一生懸命に仕事をする人で、ANNのDJに抜てきされてからも、しゃべりのつなぎを工夫したりしてた」

亀渕氏は、当時1番人気のDJだった今仁哲夫アナウンサーの歌「今日は哲ちゃん、誕生日」を仕掛けた。

「カメちゃんはセンス抜群でね、哲っちゃんの歌も熱狂的に受けた。ビアフラ紛争の影響で食べるものがない、アフリカの国であるビアフラの子供たちの事も取り上げた。当時余っていた古米をビアフラに送ろうと、リスナーの若者たちに『外務大臣に“お米を送ろう”と手紙を書こう』と呼びかけて、実際に外務大臣に会ったりもしていた。その後、編成、局長となって社長にまでなるんだけど、本当にセンスがあった」

71年には今仁アナと、後に副社長になった天井邦夫アナがコンビを組んで、ホンダ1300クーペに乗って日本全国を縦断して、リスナーと交流する「哲ちゃん、天ちゃん、ビバ栗毛」も行われた。

「モータリゼーションの時代を先取りしていましたね。どこの地方に行っても若者たちが殺到して、全国に夜の放送をアピールした。やがてアナウンサーの時代からフォークソングブームなどの波に乗って、DJという呼び名がパーソナリティーとなって、タモリさん、ビートたけしさんといったしゃべりの天才を引っ張ってきた。あと、笑福亭鶴光さんがやった土曜深夜のANNの功績も大きいですね」

高嶋がニッポン放送に入社した当時の編成局長は、後にニッポン放送、キャニオンレコード、フジテレビのの社長を歴任する石田達郎氏だった。

「私が入社した頃のラジオは、テレビに人材を引き抜かれて『もうすぐつぶれるんじゃないか』みたいな危機感があったんです。石田さんは、次々にサテライトスタジオ、ANN、ナイター中継を仕掛けて『つぶれたとしても、最後につぶれる放送局になろう』と意欲的でした。そういった精神は今も変わらずにANNに生きている。食わず嫌いになることなく、自薦、他薦を問わず受け付けてポジションを与えてきた。思えば、オールナイトニッポンのテーマ曲の『ビター・スイート・サンバ』をかけて『君が踊り、僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる』って相も変わらずやってるのは僕だけになりましたね(笑い)」

当時は個人が出した企画を、すぐに実現した。

「私は、各曜日のDJをプロレスラーに見立てて戦わせる『オールナイトプロレス』をやりました。今仁哲夫アナだったら『ストロング・ピッカリ哲』と。糸居五郎さんだったら『GOGOゴロー』とかで、戦わせて実況風に。『ビバヤング』というANNの小雑誌を作ってたんだけど、DJみんなに、そのプロレスラーの格好をさせて載せたりね。『まずいだろ』って言う人もいたけど、みんなで面白がった」

テレビというメディアが登場した時代。多くの人材がラジオからテレビへと移った。高嶋はニッポン放送のOBの集まりである「LF会」の会長を務めている。

「LF会でANNを始めたときの編成部長で、後に会長を務めた羽佐間さんをインタビューしたことがある。今は94歳になるけど、頭はシャキッとしている。『20代、30代の若い発想、若い力、とんでもない力を爆発させなきゃラジオに明日はないと思った。知恵とやる気と汗を流して、新しいラジオを始めた。新しいラジオ好きの若者も入ってきて、そういう力を伸ばすようにした』。そう話してくれました」

ビバヤングの精神は、55年たってもANNに流れ続けている。