タレント松本明子(60)が4月2日に左足関節脱臼骨折で入院、同8日に還暦、60歳の誕生日を迎えた。
ボルト12本を埋め込む重傷も、同17日に退院して、松葉づえをついて復帰した。めでたいんだか、どうだかよく分からない、祝! 骨折還暦退院記念インタビュー。あの大事件も含めて、その軌跡をじっくりと2回にわたって振り返ってもらった前編。【小谷野俊哉】
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事件は4月2日の昼前、松本の自宅前で起こった。
「玄関を出て1歩目です。左足を踏み出した瞬間にツルンと滑りまして、内側にグニュッとね。いかんと思って、力をかけて外側に開いちゃった。そしたらそのまま尻っぺたで着地。激痛で気がついたら左足首があらぬ方向、外側に直角に曲がってしまって、そこから先がブランブラン」
夫の俳優本宮泰風(54)が在宅中だった。
「意識ははっきりしてて、足のすねの骨が皮膚を突き破ろうとしていました。本宮が自宅から出てきて、救急車を呼ぶより早いだろうと車で大学病院に運んでくれました」
エックス線、CTを撮って緊急手術。搬送されたのが早かったため、すぐに手術できた。
「ボルトを足に串刺しにして、つり上げてキュッキュッと締めまして。創外固定(そうがいこてい)っていうんですが、バラバラになった骨を固めてジャングルジムみたいにボルトで押さえると」
同7日に3時間かかって2回目の手術。金属プレートを12本のボルトで固定して20針縫った。翌8日のお釈迦(しゃか)さまの誕生日に、病院でめでたく60歳になった。
「麻酔が切れたら息もできないくらい、ジンジン痛い。痛みで一睡もできないうちに還暦の誕生日を迎えました」
左足はかかとが地面に着かないようになった装具、反対の右足は長さを合わせるために上げ底のスニーカー。歩く時は両脇に松葉づえ。リハビリをして、松葉づえが完全にとれるのは3カ月後の予定だ。
「入院中は44人もお見舞いに来てくれました。林家ペーさんは豚まん60個を持って、アポなしでやって来ました(笑い)。松村邦洋さん、中山秀ちゃん、ビビる大木さん、青木さやかさん、それから83年アイドル不作の同期の大沢逸美、小林千絵、桑田靖子も来てくれました。城戸真亜子さん、浅野ゆう子さんまで来てくださいました。東貴博さんは、左足関節脱臼骨折の記念トートバッグをオーダーメイドで作って持ってきてくれました。石塚英彦さんはスイーツを。ノッチ中岡さんは骨折の先輩で、カルシウムを。ありがたい限りです」
上京したのは1982年(昭57)3月、中学卒業の翌日だった。
「香川県の高松の生まれ。父親は歌とお酒が好きで、私は3歳くらいからスナックに連れていかれて歌わせてもらっていました。それで、中学を卒業する時に、(松田)聖子ちゃんになって、ブラウン管の箱の中で歌いたいんだっていう夢を抑えきれずに上京を決めたんです。スナックのママさんが常連の西日本放送のディレクターさんに頼んでくれて、ローカルニュースに取り上げられました。『こちら高松港です。これから船に乗って東京に行き、歌手を目指す1人の女の子がいます』と、系列の日本テレビの『ズームイン朝』で中継してくれたんですね」
父親の妹の家に下宿して、夢はアイドル歌手。
「堀越高校の普通科コースに通いながら、いろいろなオーディションを受けました。それまでに『西城秀樹の妹募集』とかホリプロスカウトキャラバンに落選していたんですけど、東京に来てから日本テレビの『スター誕生!』の予選を勝ち抜いてテレビの決選大会に。徳永英明さんや本田美奈子ちゃんと一緒でした。その時に私だけスカウトの札が上がって、バップレコードと渡辺プロダクション。芸能コースに編入して、17歳、高校2年生の時の5月に『♂×♀×KISS(オス・メス・キッス)』でデビューしました。私は最初に『この題名、読めないだろう』ってびっくりしました」
作詞は森雪之丞、作曲は後藤次利というヒットメーカーのコンビだった。
「かわい子ぶりっ子のアイドルの時代が、もう通りすぎるんじゃないかということでね。事務所の先輩のアン・ルイスさんに衣装を考えてもらって、ロックアイドル的な楽曲で売り出そうとしていました。大プロジェクトでやったんですが、残念ながら波に乗れませんでした。とにかく売れない。オリコン最上位が131位止まりですから。そこからは、もう落ちる一方でね」
そして柳沢純子、小森みちこと売れないアイドル3人で「トリオ・ザ・ゴミ」と名付けられて、ニッポン放送「鶴光のオールナイトニッポン」の笑福亭鶴光(78)のアシスタントを務めた。1984年(昭59)4月1日、運命の日がやって来た。「オールナイト-」とフジテレビ「オールナイトフジ」の二元中継の生放送中に鶴光と片岡鶴太郎(71)にそそのかされて「オ○○コ」と禁断の4文字を叫んでしまった。
「私もね、一瞬、考えましたよ。これはいけない言葉なんじゃないかなと思いました。けれども売れないアイドルとして、爪痕を残したいという気持ちもあったんです。大変でしたね。生放送で発言して、私はスタジオから撤収されました。で、国立にあった事務所の寮に送り届けられて、その翌日から謹慎。全てのスケールが白紙になりました。翌日の朝日新聞の社会面には『新人アイドル歌手、言ってはいけない言葉を生放送で発言』と載りましたから。目の前が真っ暗で、事務所にもテレビ局にも怒られて、もうとにかく反省をしろということで。田舎に電話して母親に泣きついたんです。『もう荷物まとめて帰っておいで』と言われたいがために電話をしたんですが、笑いながら『よかったじゃない、名前が知られて』と笑い飛ばしてくれました。その後、2年近く東京のテレビ局は出られなかったですね」(続く)
◆松本明子(まつもと・あきこ)1966年(昭41)4月8日、香川・高松市生まれ。82年日本テレビ「スター誕生」でスカウトされ、83年「♂×♀×Kiss(オス・メス・キッス)」でアイドル歌手デビューも不発。89年にニッポン放送「文夫と明子のラジオビバリー昼ズ」、91年日本テレビ「DAISUKI!」、92年テレビ東京「TVチャンピオン」、日本テレビ「進め!電波少年」のレギュラーに。98年に俳優の本宮泰風と結婚。152センチ。血液型A。
「進め!電波少年」のプロデューサーだった土屋敏男氏(69) 元々、「電波少年」は3カ月の予定の“穴埋め番組”でした。会社の上から「3カ月だけだから。ついては、それぞれの事務所から松村邦洋と松本明子を頼まれているからよろしく」と(笑い)。彼女とは、それまで全然付き合いがなかったのですが、すぐに「アッコとやれたのが成功の理由」だと分かった。彼女はロケに行っても、相手の懐に入るのが抜群にうまい。脚本家のジェームス三木さんと奥さんがもめた時も、両方の懐を行ったり、来たりしていて「手のひら返し」という名フレーズになった。PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長に会いに行けたのも、国際的な懐に入るうまさ。紅白の合唱団に紛れ込めたのも、相手に「しょうがないな」と思わせる天性の懐に入るうまさとたくましさがあるから。番組が終わって、20年以上たつけど今でも活躍している。「電波少年」が放送しているうちに結婚して、出産して、戻ってきた。いろいろなスターが生まれた番組だけれど、やり切ったのは彼女だけですね。



