<紙面復刻:1995年7月15日(この道

 500人の証言187・山口百恵その3)>

 【証言544】

 「伊豆の踊子」(74年=昭49=12月公開)ほか6本の主演映画を撮った西河克己監督(77=日大芸術学部大学院講師)

 「足踏みせず、一作ごとにどんどん成長してしまう子だった。普通、女優はイメージを守ろうと3年に一つしか年をとらない。彼女は1年に二つ年をとる女性だった」。

 1976年(昭51)6月発売の「横須賀ストーリー」は81万枚を売った。

 【証言545】

 評論家の平岡正明氏(54)

 「この曲をレコードで聴いた瞬間、とてつもない埋蔵量を直観した。以後注目したが、一曲ごとに歌声の表情が違った。美空ひばりを継ぐ女王は、百恵しかいないと確信し、菩薩(ぼさつ)論(山口百恵は菩薩である)を書いた。この二人は背負っているものを、歌に出せた。出した」。

 ダウンタウン・ブギウギ・バンドを率いていた宇崎竜童氏(49)が作曲、妻の阿木燿子さんが、やがて女へと季節を変える少女の心を詞にした歌だった。

 百恵も季節を変えた。

 「イミテーション・ゴールド」(77年7月)で新しい恋人への戸惑いを歌い、「プレイバックpart2」(78年5月)では真っ赤なポルシェを飛ばして「馬鹿(ばか)にしないでよ」と叫んだ。「横須賀」以降の20曲のうち、14曲を宇崎・阿木コンビが担当した。

 【証言546】

 宇崎竜童氏

 「打ちにくい球を次から次へと彼女に投げた。どんな球でも必ず期待以上に打ち返してきた。だから、一曲一曲が戦いで、まあいいか、の妥協が一度もなかった。引退した時は正直ホッとして(笑い)。彼女がどんどん成長するから、周囲も筋力アップせずにいられなかった。今になって、よくあんな面白い曲が作れたと思いますからね」。

 花火が次々と夜空にはじけるように、百恵の魅力は急速度で自ら開花した。

 【証言】

 写真家の篠山紀信氏

 「初めから、はつらつとした中にも重い色気、エロチシズムがあった。それを僕は写真で引き出した。彼女はそれにすぐ気付き、次の写真にすぐ生きた。彼女は来るたびにどんどんよくなった」。

 74年10月、TBSテレビ系で「赤い迷路」(金曜午後9時)が始まり、「赤い」シリーズは「疑惑」「運命」「衝撃」「絆」と続いた。不幸な生い立ちの少女の試練を、ファンは百恵の実像に重ね合わせ、視聴率は平均20%以上を稼いだ。

 【証言】

 ホリプロ社長の小田信吾氏

 「ドラマで培ったものが歌に生かされ、歌が映画に生かされた。すべてがかみ合って、グルグル回り出した」。

 78年(昭53)、国鉄のキャンペーンソングともなった「いい日旅立ち」が自己最高の100万枚を売った。

 証言547

 作詞作曲の谷村新司氏(46=歌手)

 「彼女はとても礼儀正しく、常識をわきまえた、普通の人なんです。その、すごく普通のところが僕には魅力的だった。そういう生の彼女、気負いのない彼女が出る歌を作ったんです」。

 77年(昭52)12月公開の映画「霧の旗」(西河克己監督)の、当時18歳の百恵が三国連太郎演じる弁護士を誘惑して籠絡(ろうらく)する悪女を演じた。

 【証言】

 西河監督

 「23、24歳の年輪を経た女の役を、存分に魅力を発揮しながらこなした。同じ役を例えば倍賞千恵子は映画50本目の24歳で出演した。でも18歳の百恵はそれと比べても何らそん色なかった」。

 【特別取材班】※年齢、肩書きは当時のものです。

 [2010年3月30日6時55分]ソーシャルブックマーク