過激な言動で絶大な人気を集め、昭和と平成を代表する落語家で落語立川流家元の立川談志(たてかわ・だんし)さん(本名・松岡克由=まつおか・かつよし)が21日午後2時24分、喉頭がんのため都内の病院で亡くなった。75歳だった。

 談志さんが生前、最後に書かれたとみられる直筆の置き手紙があった。「見舞いにきましたが

 ねてましたので

 失礼します

 立川談志」。談志さんが住んでいたマンションの階下にある酒店の主人が10月15日から10日間、日本医科大付属病院に入院していた。偶然、同じフロアに談志さんも入院していたという。20年来の付き合いで、談志さんは優れない体調にもかかわらず、自ら酒店主人の病室に行き、書いたものだ。談志さんが文面を残したのは10月20日の午後2~3時ごろのことだった。

 酒店主人の息子である吉田武彦さん(38)も10月下旬に、談志さんの病室を見舞った。幼少からかわいがられていたという吉田さんは「よくNBAの話を一緒にしました。師匠は元シカゴ・ブルズのスティーブ・カーが大好きでした。そしてNBAの本をたくさんくれたんです」。談志さんが元気だったころは、自宅近くの駅から地下鉄で銀座まで行き、よく飲んだという。談志さんは10月下旬に病院を抜け、いったん自宅に戻ってきた。「僕が手を挙げてあいさつすると、師匠も挙げて応えてくれた。6歳のころからかわいがってもらって…、本当に残念です」と肩を落としていた。

 東京・文京区にある自宅周辺には談志さんと親しかった友人が数多くいた。「八重垣煎餅」も談志さんのマンションの階下にある。店ののれんや、紙袋には談志さんが書いた標語がデザインされている。店を切り盛りする竹内隆さん(59)は「店の前を、娘さんが車いすを押して通ったのを見た。あいさつしたら、目で返してくれたよ。でもやせ細っていた」と振り返る。今年1月には根津神社で一門の新年会を開いた際に竹内さんも参加し、談志さんもいたという。

 3月11日の東日本大震災で煙突が折れ、閉店してしまった近所の銭湯山の湯にも竹内さんは、談志さんとよく出かけた。「師匠の背中は本当にガリガリでしたよ」と話した。【三須一紀】