名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第36回は、五木ひろしの大ヒット曲「よこはま・たそがれ」です。デビュー以来、なかなかヒットに恵まれず、芸名を変えながら、歌手活動を続けていた五木にとって、原点とも言える曲です。

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歌謡界のサクセスストーリーを語る時、五木ひろしを抜きにはできない。「松山まさる」「一条英一」「三谷謙」そして「五木ひろし」と4度芸名を変えた。「よこはま・たそがれ」のヒットで世に出るまで、6年間の下積み時代があった。あれから25年が過ぎた時、五木は「初めてテレビの歌番組に出た時、共演者が向けた『こいつが、あの歌を歌っているやつか』という視線は、今でも忘れない」と言う。

三谷謙時代の1970年(昭45)の秋、日本テレビ「全日本歌謡選手権」を10週勝ち抜いて、五木ひろしとして再デビューした話は有名だ。しかし10週勝ち抜いたから「よこはま・たそがれ」を得たわけではなかった。

22歳だった五木の才能を見抜いた作詞家の山口洋子さんと作曲家の平尾昌晃さんのコンビで、実は同曲は7週目には出来上がっていた。平尾さんは「もし五木君が10週チャンピオンになれなくても『よこはま・たそがれ』でデビューしていたと思う。私もそうですが、特に山口さんが五木君にべたぼれでしたから」と振り返る。五木も「7週目の時に、南こうせつさんが歌謡選手権に出ていてね。楽屋でラフな『よこはま・たそがれ』を歌って聴かせたんです。彼は『面白い歌ですね』と言ってくれた。『よこはま・たそがれ』をスタッフ以外で最初に聴いたのは、実は南こうせつさんだったんです」と語る。こうせつは3年後、かぐや姫で「神田川」を発表する。

山口さんが、五木に期待した情熱は、歌詞が全て「名詞止め」という、当時では考えられなかった斬新な手法にも表れた。山口さんは「森進一さんが火なら、五木さんは水のイメージ」が口癖だった。だから「よこはま・たそがれ」「長崎から船に乗って」「千曲川」と、山口さんが五木に提供した曲は水ものが多い。「よこはま・たそがれ」は最初、「あの人は行ってしまった」というタイトルだったが、後に変更された。ポップ調のメロディーとともに、斬新な編曲もこの歌をヒットさせた。子供のころ、「ピーヒャラ・トントントン」と聴いた白虎隊の行進曲が頭から離れなかった平尾さんが、新進の編曲家だった竜崎孝路さんとともに、あの独特のイントロを作り上げた。

71年3月1日に発売されると、レコード会社「ミノルフォン・レコード」では、音楽情報誌「オリコン」のページを買って、毎週のチャート順位を伝える広告を掲載した。1位を獲得するのは7月19日付トップ10で、5カ月も広告を出し続けた。後にも先にもない前代未聞のキャンペーンだった。1位になった日、五木は営業先の空港から山口さんに電話をしたが、涙で言葉にならなかったという。

「よこはま・たそがれ」はヒットしたが、当時のミノルフォンは弱小で、倒産間近といわれた会社だった。大量にレコードをプレスする力がなく、発売日に全国の店頭に並べられた最初の出荷枚数は2万枚程度だった。数週間後、毎日2万、3万枚とバックオーダーが殺到したが、生産が追いつかず、店頭からレコードが消える日が続いた。当時のスタッフは「もしコロムビアやビクターのように大手だったら、今の300万枚に匹敵する枚数を売っていたと思う」と残念がる。ミノルフォンはこの1曲で経営を立て直し、その後は吉幾三、岡本真夜らを擁する大手レコード会社に成長した。

五木がオリコンで1位を獲得した翌日の7月20日、東京・銀座に「マクドナルド」の日本1号店がオープンした。日本の高度成長がますます加速をつける70年代前半、五木ひろしが歌謡界の主役に躍り出た。【特別取材班】


※この記事は96年12月9日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。