トルシエ監督が逃げた。02年5月16日。日本代表はノルウェー遠征からパリ経由で成田に戻り、翌17日がワールドカップメンバー発表日だった。パリのシャルル・ドゴール空港のラウンジで指揮官は、日本協会の強化推進本部・加藤彰恒部長を呼んだ。「オレは成田行きの飛行機には乗らない」。突然の通告に、あぜんとした加藤部長は即座に日本にいた木之本副本部長に電話を入れた。「俊輔のことだろう。逃げたいのなら、いいよ。オレが発表するから」。電話の向こうからそう返ってきた。

 最大の関心事は当時23歳だったMF中村俊輔の当落だった。横浜のジュニアユースからユースに上がれず、桐光学園に進学し、横浜のトップチームに加入。逆境を乗り越えてトップアスリートに成長した足跡に共感するファンが多く、左足の芸術的なFKはサッカーになじみの薄い人も魅了した。赤ちゃんの名付け本には「俊輔:逆境を乗り越えて突き進む」の説明が付くほどだった。

 「これからメンバーを言うぞ」。パリの空港ラウンジで、トルシエ監督はFWから順に23人の名前をしゃべりだした。予想外の展開に、加藤部長は慌ててメモ帳を取り出し、書き込んだ。「これは明日の発表まで、絶対に明かすな」と言って、通訳のダバディー氏とともに空港を離れた。中村の名前はなかった。しかし加藤部長は驚かなかった。

 その2カ月前。ポーランド遠征で中村の落選は決まっていた。遠征に出る直前に国内で行われた3月21日のウクライナ戦が、実は俊輔の最終テストの場だった。トルシエ監督はそう位置づけていた。後半から出場した中村は結果を残せず、ポーランド戦で出番は与えなかった。指揮官はその夜、加藤部長に告げた。「俊輔はW杯メンバーには選ばないから、その旨を本人に伝えてくれ」。

 直後、加藤部長は中村を宿舎ホテルのロビーに呼んだ。「トルシエ監督はもう呼ばないと言っている。W杯メンバーに選ばれないことになりそうだけど、まだ若いし将来があるから頑張ってくれ」。中村は下を向き「はい」と短く答え、自分の部屋に戻った。それでもわずかな可能性を信じた。国内での5月2日のホンジュラス戦では2得点で気を吐いた。しかし“予定通り”中村俊輔の名前は呼ばれなかった。

 W杯期間中、中村は韓国に渡り、ホテルの一室で日本代表戦をテレビで見た。「W杯は見たいけれど、オレが会場に行ったら、気にする選手が出るかもしれないから。ここ(韓国)で他の国の試合を生で見るよ」。日本代表の印象を聞かれると「みんな髪の毛を染めてるね」と、肝心の戦いには触れなかった。【盧載鎭】(つづく)

02年5月、トルシエ監督の前を走る中村俊
02年5月、トルシエ監督の前を走る中村俊
W杯日韓大会日本代表メンバー
W杯日韓大会日本代表メンバー