キックボクサー沢村忠(左)の指導でキックボクシングの訓練を受ける高倉健(1968年9月撮影)
キックボクサー沢村忠(左)の指導でキックボクシングの訓練を受ける高倉健(1968年9月撮影)

小学生の頃、キックボクシングの沢村忠はヒーローだった。リングに上がれば必殺の『真空飛びひざ蹴り』でKOの山を築いた。戦績は実に232勝(228KO)5敗4分け。連続KO勝利は100試合超。その半生はテレビアニメ『キックの鬼』にもなった。「仮面ライダーと戦ったらどっちが強いのか」などと私は真剣に考えていた。それほど強かった。

彼の人間としての強さを実感したのはリングを去った後。77年10月の引退後、格闘技界ときっぱりと関係を断った。過去の栄光も名声もすべて胸にしまい込み、かねて興味を持っていた自動車整備士を目指して整備工場で3年間修業を積み、資格を取得して独立。その後は白羽秀樹の本名で都内で自動車整備工場を営んでいた。

スター選手が表舞台から突然姿を消したことで、さまざまな臆測報道が流れた。最も多かったのが現役時代のダメージで普通の社会生活を送れなくなった。そのほかヤクザの用心棒、死亡説まで流れた。それでも沢村さんは沈黙を続けた。「沢村さんですか?」と問われると「よく似ていると言われるんですよ」と答えていたと人づてに聞いた。

沢村忠氏(右)は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)
沢村忠氏(右)は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)

一時代を築いた国民的ヒーロー。ジム経営やタレント活動など人気と実績を生かした日の当たる道もあったはず。目黒ジムの後輩で元WKBA世界ウエルター級王者の伊原信一氏は「彼はとにかくモテた。女性が列をなして群がった」と振り返る。しかし、沢村さんは第2の人生でその名声や威光を使うことは一切なかった。なぜ彼がリングの上であれほど強かったのか、分かるような気がした。決して妥協しない鋼の意志を持っていたのだろう。

沢村さんは3月26日、肺がんのため78歳で亡くなった。久しぶりに「沢村忠」の名前を聞いて、彼の勇姿とともに、昭和40年代の記憶が次々とよみがえった。カップヌードルやハンバーガーを初めて食べたこと。ブルース・リーの映画を見てヌンチャクを練習したこと。仮面ライダースナックを買ってカードを集めたこと。ボウリングの中山律子さん、今は亡き祖父母の笑顔……。

沢村忠というリングネームは、まさしく昭和という時代の代名詞だった。

もしかすると彼は沢村忠という希代のキックボクサーを、全盛期の勇姿のまま日本人の記憶に残しておきたかったのかもしれない。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

沢村忠氏は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)
沢村忠氏は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)