私が海外に興味を持ち始めたのは、海外選手の楽しそうな姿だった。練習も、コーチとのやりとりも、そして試合すらも楽しみにしている姿が私にはとても魅力的に映った。


米国でトレーニングしていたころの筆者(右端)とウィングフィールド・コーチ(左から2人目)
米国でトレーニングしていたころの筆者(右端)とウィングフィールド・コーチ(左から2人目)

飛び込みを始めた頃から見てもらっていた安田先生(※注)の指導はとにかく厳しく、飛び込みを楽しむ余裕などほとんど無かった。未熟ながらに小さな世界に閉じ込められた感覚が嫌で、いつ辞めようか考えながらも辞める勇気はなく、迫りくる試合のために練習する日々だった。

私が単身でアメリカのチームの練習に参加したのは高校を卒業してすぐのことだった。

高校3年生の時の世界ジュニア選手権でアメリカの選手たちと仲良くなり、「私たちのチームにきて一緒に練習しよう」と誘ってもらったことがきっかけだった。

もちろん1人で海外へ行くのは初めてで多少の不安もあったが、これからどんな事が待っているのか、とてもワクワクしたことを今でも覚えている。


アメリカでの練習は朝7時30分から始まった。まずはトランポリンやマット運動などを行う「ドライランド」というエリアでの基礎練習からスタート。その後プールへ移動し、プール練習が終わると日替わりでピラティスやバレーレッスン、ウエートトレーニングなどが行われた。

ハードな練習や慣れない英語での生活に毎日クタクタだったが、冒険をしているような新しい日々がとても新鮮で楽しかった。

しかし、練習環境は決して恵まれているとは言えなかった。

プールが利用できる時間も限られていたし、空き家を改造したドライランドには、手づくりの練習道具やどこかで譲り受けたであろう古いウエート器具が並んでいた。もっと恵まれた環境の中で練習していると勝手に思い込んでいた私は、実際に見ることや体験することの大切さをこの時に感じた。

そして日本では学校が終わってからの練習が当たり前だったが、アメリカでは強化選手に選ばれた選手たちはオンラインで授業を受けたり、夜間に学校へ行ったりと、競技中心の生活を送っていることにも驚いた。国の強化方針の違いも感じたが、練習後の疲れている中でもきちんと勉強している選手たちを尊敬のまなざしで見ていた。


2008年北京五輪女子高飛び込みの演技
2008年北京五輪女子高飛び込みの演技

その後引退するまで何度もそのチームを訪れたのには理由があった。

アメリカの選手とのつながりが私のモチベーションの維持につながっていた事もあったが、チームのコーチであるジョン・ウィングフィールド氏の存在が私にとってとても大きかったのだ。

ある日ジョンは「長い人生の中で競技をしている時間は一瞬。だからその先の人生も考えて指導してあげなければいけない」と私に話してくれた。選手としてまだまだ発展途上だった私は、この言葉にとても衝撃を受けた。

ジョンは選手の人生を考えて指導していたのだ。

当時の私の中での「コーチ」という存在は、競技に関することのみに関わり、何よりも結果を出すためだけに指導していると思っていた。そして将来や引退してからのセカンドキャリアについてなど、自分自身のことでありながら、ほとんど考えたこともなかった。

ジョンはジュニアの選手たちに対しても子ども扱いせず、きちんと将来について考えさせ、人格形成も考えながら指導していた。その姿に「こんなに親身になって考えてくれるコーチがいるんだ」と感動した。

そしてライバルになりうる私に対しても全力で指導してくれ、不安な時やうまくいかない時にはいつも笑顔でポジティブな言葉をかけてくれた。何があっても常に変わらない姿に安心感を覚え、選手にとってコーチとの信頼関係がどれだけ大切かということを感じた。

ジョンはその後2008年北京オリンピックのヘッドコーチとなり、オリンピックのメダリストを何人も輩出したが、その人格は変わらなかった。


小さな好奇心から始まった冒険は、人生の大きな財産となった。

実際に経験することの大切さや人との出会い、そして楽しむということが人を成長させ、その人自身を魅力的にする。これからも常に心に留めておきたいことのひとつである。


そして何よりも、私を一から私を育ててくれた安田先生が一切の甘えを許さない厳しい指導だったからこそ、挑戦する勇気と覚悟、そして困難を乗り越える力をつけてくれたと感謝している。

(中川真依=北京、ロンドン五輪飛び込み代表)


※注 安田憲正(やすだ・のりまさ)氏。石川県の小松市立高で長く飛び込みの指導にあたり、浅田雅子(ソウル五輪代表)や中川真依ら日本のトップ選手を育てた。2013年、大腸がんのため66歳で死去。