日本の歴史を変えてきた男子テニスの錦織圭(32=ユニクロ)が、苦悩の中にいる。14年全米オープンでアジア男子初の決勝に進出。15年には世界ランキングでもアジア男子最高の4位になった。しかし、21年10月のBNPパリバオープン以来、左股関節の関節唇損傷と右足首の故障もあり、1年以上も実戦から遠ざかっている。復帰の見通しがたたず世界ランキングは消滅。これまで多くを語らなかった錦織がけが、現在のテニス、そして家族への思いまでつまびらかにした。【取材・構成=吉松忠弘】

「夏ごろ、引退がよぎった」。錦織は11月に所属するユニクロのイベントでこう述べた。この重い発言の真意、苦悶(くもん)に満ちた日々などについて、こう明かした。

「(股関節のリハビリ中に)肩に痛みが出たり、違う痛みが出たり。ジムに行く以外、何もできない。もどかしさが2~3カ月くらいはあった。その時期が、一番つらかった」

追い打ちをかけたのが9月の右足首の故障だった。

「ようやく実戦形式の練習ができて、動きも良くなってきた9月の終わりごろ、練習で軽く右足首をひねった。検査に行ったら、今までの蓄積があって、思ったよりも悪くなっていた。本当に余計だった」

右足首は12年後半に痛みが出て、それ以来、プロテクターを装着しプレーしてきた古傷だった。

「リハビリで強くして、痛みを乗り越える感じ。それを頑張っている。(前にけがした)ひじも、今回の股関節も、中で(骨などが)変形している。リハビリで治すことができないレベルで、削らないと当たって痛い。防ぎようがないので、どうすれば良かったとか一切考えない」

けがが多いため、痛みに対して、錦織ならではの感覚、嗅覚がある。

「すごく痛みに敏感な方。痛がり(笑い)。だから、早めに痛みを察知して、大きなけがにはつなげない。でも、けがにはなかなか打ち勝てない。痛しかゆし。ただ我慢はできるタイプ。今は我慢しかない」

引退もよぎった心を、どう立て直したのか。

「なんだかんだ、自分で努力し、才能を積み上げてきた。こんなに努力したのを、このぐらいのことで手放すのか? と考えたら、あり得ないと思った。これをケガで手放すのは、一番もったいないと感じた」

錦織がいない間、憧れのフェデラー(スイス)は引退し、19歳の最年少でアルカラス(スペイン)が世界1位に躍り出た。

「欲をいえば、最後にもう1回、フェデラーと試合をしたかった。アルカラスとは、練習でもやったことがない。新次元のテニスで、対戦したい楽しみが大きい。ちょっと味わってみたいなと。怖さはあるけど(笑い)」

結婚して2年がたち、子どもも1歳になった。けがで出場できない間、常に家族がいた。

「子どもの成長をそばでずっと見たいと思っていた。その夢がかなったのはうれしいけど、それは引退してから味わえばいいと思っていたので、少し想定外。今は、まだテニスが8で家族が2。まだ、まず、(テニスで)自分の幸せを感じていたい」

子どもの時から、感情をあまり表に出さない。言葉も決して多くない。それは、家庭を持ってもあまり変わらないと言う。家族につらい思いをさせたくないというのもある。

「家族を持って、よくしゃべるようにはなった。子どもと遊んだり家族と過ごしていると、テニスを忘れて気が紛れる。ただ、(テニスの愚痴とか)僕は奥さんにも、あまり言わない」

復帰の時期は右足首のリハビリ、状態次第だ。20年の全米を制し、3位にまでなったティーム(オーストリア)の復帰への道のりを反面教師にし、ツアー下部大会からの復帰を模索中だ。ティームは21年6月に右手首をケガ。22年3月まで実戦を離れた。一時は世界ランクも300位以下に転落し、復帰後もまだトップ100に戻れないでいる。

「ツアーの試合にたくさん出続けて(慣れて)いたティームでさえ、あれだけ(ツアーでの試合は)苦労するんだと。チャレンジャー(ツアー下部大会)に出て自信をつけないと。そっちの方が、自分にはあっている」

この数年の錦織の人生は大きく変化したが、忘れっぽく照れ屋の素顔は変わらない。29日には33歳になる。年末恒例となった取材、いつものような、少し早い誕生日ケーキを前にしても、こう言ってとぼけてみせた。

「やばい、もう33(歳)か。当たり前なんですけどね(笑い)。来年は100位以内に入っておきたい。そこから上は、戻ってきてから考える」

◆錦織のこの5年の主なけが 17年8月の全米前哨戦で練習中に右手首の尺側手根伸筋腱(けん)を脱臼し、その時点で17年のシーズンが終了した。18年1月に米国のツアー下部大会で復帰。19年10月に右ひじの骨棘(こっきょく)2本を取り除く内視鏡手術を受けた。全米を最後に19年のシーズンを終了した。20年8月に新型コロナウイルスに感染し、復帰予定の全米出場を断念。9月のオーストリアで、約1年ぶりに実戦に復帰した。21年9月に左股関関節唇損傷で痛みが再発。同年10月を最後に実戦を離脱し、22年1月に内視鏡の手術を受けた。復帰を目指していた9月に右足首を捻挫し、1年以上実戦から離れる日々が続いている。