メンタル以外は飛び抜けていた/圭物語3

<旅立ち3>

 日本テニス協会の盛田正明名誉会長が、00年に自費で創設した盛田テニス基金の支援を受け、錦織圭は13歳で米国に旅立つ。そのきっかけをつくったのが、同基金創設以来、選手を選抜する役目を担っている丸山薫氏(49)だ。

 01年全国小学生選手権で、丸山氏の目に留まったのが錦織だった。重視するのは、武器を持つ、体を自然に動かす、動きの速度、精神力の4つだ。「メンタルを除いた3つが飛び抜けていた」。錦織は、5試合で計16ゲームしか落とさずに優勝。圧勝続きで、精神力を測る間もなかった。

 優勝後、錦織は同年9月に都内での同基金の練習会に初参加した。02年には、米国に対応できるかテストの意味も含め、2週間の短期で米国を訪問。丸山氏は、その渡航に付き合った。「圭には自分の世界がある。空港でも、1人で黙々とゲームをしていた」。

 才能にほれ込んだ丸山氏は、03年2月に松江まで出かける。選手の地元まで足を運ぶのは初めてだった。その報告書には「伊達公子以来の才能。総合力がすごい」と書いた。その後押しが、錦織のテニス人生を大きく変えた。

 同年3月。錦織は、東京・久我山で行われた最終選考会に参加した。最終的に合否を決めるのは、留学先のIMGアカデミーから来たヘッドコーチのハラミロだ。約2時間の選考会で、ハラミロの錦織への評価は「最高のストロークを持っている」。錦織のシャイな部分がネックだったがテニスの才能が上回り、基金の4期生として合格した。

 残暑の陽光が水面を照らしていた。03年9月。父清志さんは、地元松江の名所をめぐる堀川めぐりに息子を誘った。松江城を囲む堀を、小さな舟で回り、小泉八雲記念館や城の歴史に触れる約1時間の小旅行だった。故郷を忘れないようにという親心だった。

 錦織は、米国留学に「不安はなかった。それが自分の道だった」という。しかし、旅立つ前日、姉玲奈さんの部屋の壁を、かまってほしくてドンドンとたたく弟の姿があったという。堀川めぐりから2日後の9月11日、錦織は日本に別れを告げ米国に旅立った。

 

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