夢じゃない。陸上男子400メートルリレーで日本が歴史的な銀メダルを獲得した。山県亮太(24)-飯塚翔太(25)-桐生祥秀(20)-ケンブリッジ飛鳥(23)で国別で世界歴代3位となるアジア新記録の37秒60を出し、3連覇したジャマイカに次ぐ2位。08年北京大会の銅を上回り、1928年アムステルダム大会女子800メートルで銀メダルの人見絹枝に並ぶトラック種目の最高成績を収めた。個人の走力は上がり、バトンパスは進化。4年後の東京五輪では金メダルを狙う。

 バトンを渡した瞬間、確信した。「メダル、いける」。3走の桐生は遠ざかるケンブリッジを追ってゴールに走った。ケンブリッジとブロメル(米国)がほぼ同時にゴールする背中を見た。大型画面を見上げると銀メダル。跳び上がって右拳を振って、ケンブリッジに胸から思い切りぶつかった。不格好な抱擁が歴史的な歓喜の証明だ。

 「最高の気分。最高の1日。ケンブリッジさんに『走り抜けて、抱きつきにいきます』と言っていた」

 4人の走力が結集した。1走山県がロケットスタートで流れをつくる。2走飯塚はエース区間で相手との差を最小限で食い止めた。3走桐生はバトンを受けて「外側の選手は全員抜く」。「桐生ジェット」で中国、カナダを抜いてトップに浮上。ケンブリッジはボルト以外に前を譲らなかった。予選で出したアジア記録を0秒08更新した。

 桐生は22日に52歳の誕生日を迎える母育代さんから「プレゼントはメダルでいいよ」と言われていた。「家族にメダルを取って帰ってくるといっていた。僕たち、歴史の中に名を残せたんですかね?」と笑った。

 自信が揺らいでいた。14日にボルトと同組の男子100メートルで予選敗退。「僕はもう速い選手じゃない」と口にした。6月の日本選手権は足の違和感があって3位に沈んで号泣。京都・洛南高の恩師、柴田監督にも電話で「せっかく会場に来ていただいたのに。すみません」と泣いた。7月の欧州遠征では9秒台のスプリンターに連敗。帰国後は目標だった「9秒台」「五輪決勝進出」という言葉を口ごもるようになり、顔をしかめることが多くなった。「勝つことの味を知らずに、五輪に来てしまった」。

 初の五輪で手痛い敗戦。精神面を心配する土江コーチにこう言った。「自分が好きなようにやってきて、この結果だったので自分のせいです」。坂道ダッシュなど好きな練習ばかり選び、苦手な筋力強化を後回しにしたことを恥じた。大学入学直後に「先生は『俺が9秒台を出させてやる』と言ってくれない」と土江コーチを困らせた“子どもの自分”と決別した。

 13年4月に17歳で出した10秒01は多くの人に衝撃を与えた。当時、山県は「今の自分にイメージできない」と焦り、飯塚は「速いよ、お前」とあきれ、ケンブリッジは「まじか」と驚いた。短距離に集まる大きな注目が、日本の意識レベルを引き上げた。その渦は「10秒01が火だねになったと言われることがある。うれしい」という桐生自身も巻き込んだ。

 個人種目で決勝に進んだ者はいない。短距離走者の争いが昇華した結果の銀だ。うねりは日本初の9秒台、そして20年東京五輪に向かう。北京は銅、リオは銀。桐生は言った。「東京五輪、もう金しか残ってない」。【益田一弘】