48年ぶりのメダル獲得を狙うリオデジャネイロ五輪サッカー男子日本代表の手倉森誠監督(48)。妻真澄さん(36)が結婚10年目で初めてメディアに登場し、夫の成功を願った。

 地球の裏側で世界大会に初挑戦するパパへ、仙台から娘2人と声援を送る。手倉森監督の妻真澄さんは「メダルを取る、取らないは考えないようにしています。結果は何でも受け入れるだけなので」。07年の結婚以来、初めて応じたインタビュー。「初めは緊張して試合も見られなかったのに、私もメンタルが鍛えられましたね」。穏やかな笑顔で夫を見守る。

 7月1日の五輪メンバー発表までは、悩む姿を見てきた。「けが人が多すぎて選手が呼べない、と迷っている感じはありました」。梓紗ちゃんと明奈ちゃんを寝かしつけ「私たちが寝たら1人だけ起きて、書斎で考える」日々だった。「ただ、どんな逆境でもピリピリする人じゃない」。チームは開幕2日前にFW久保の招集断念を余儀なくされたが、心配はしていない。

 06年。美容師の真澄さんが、飲食店を営む姉の手伝いに初めて行った日に、運命的に出会った。当時仙台のコーチで12歳上だった手倉森監督から猛アプローチを受け、翌07年1月13日に結婚。真澄さんが伴侶でなければ、この舞台に立てなかったかもしれない。09年オフ。仙台監督2年目の夫は解任騒動の渦中にいた。J2で優勝し、目標のJ1昇格を遂げながら後任候補が浮上し「辞めてやる」と荒れていた。すぐ、なだめた。「交渉でケンカしそうになったら、あなたを慕って待つ選手の顔を思い出して」。この一言で冷静になり、契約更改。12年にJ1準優勝、13年にACL初出場など歴史を塗り替えた。

 14年にリオ五輪を目指すU-21(21歳以下)代表監督に就いた後は、国内外の合宿やJリーグ視察で月に数日しか仙台の自宅にいない。「いなくて当たり前、いればラッキーくらいの感覚。いる時は洗濯、食器洗い、庭の草むしりをしてくれる」。不在の間は娘2人と心細い日もあるが、家を預かる覚悟は決めている。

 11年3月11日、東日本大震災。真澄さんは当時2歳の梓紗ちゃんと友人宅で被災。屋外に飛び出し、路上をさまよっていると「マス!」と愛称で呼ばれた。振り返ると、半壊した仙台のクラブハウスを脱し、捜しに来た「マコッちゃん」の姿があった。「お邪魔したのが初めての家で、場所は知らなかったはずなのに…」。手倉森監督も「梓紗を抱き、はだしだった。会えたのは奇跡的だった」。

 直後から、活動再開を目指して夫は家を空けた。千葉合宿中には震度6強の余震に母子2人で襲われたが「復興のために仕事できる立場。希望の光になって」と恐怖に耐えた。そして4月23日。再開されたJ1リーグ川崎F戦で勝ち、男泣きした姿にもらい泣き。献身が報われた。「マスのこと、ほったらかしてベガルタに没頭させてもらった」と今でも感謝されている。

 当時は東北のため、今は日本のため、手倉森監督は68年メキシコ大会以来48年ぶりのメダルを狙う。重責から解放されれば、つかの間ながらも普通のパパに戻る。「若い選手を育てるのが得意な監督と言われているので、五輪後は子育てを…」。真澄さんは笑いながら無事の帰国を願う。「耐えて待つ」人がいてくれるから、手倉森ジャパンは「耐えて勝つ」戦いを始められる。【木下淳】

 ◆手倉森誠(てぐらもり・まこと)1967年(昭42)11月14日、青森県五戸町生まれ。現役時はMF。双子の弟浩(JFAトレセンコーチ東北担当チーフ)とのコンビが、漫画「キャプテン翼」の立花兄弟のモデルに。五戸高から86年に住友金属鹿島(現鹿島)入り。93年にNEC山形(現山形)移籍。95年に引退し指導者転身。大分をへて04年から仙台コーチ、08年から13年まで監督。今大会の戦い方として「耐えて勝つ」を貫く決意。特技はダジャレ連発。173センチ。血液型A。