二刀流で注目された藤田倭投手(30=ビックカメラ高崎)が、バットで金メダルに貢献した。1点リードの5回2死二塁で主導権を引き寄せる適時右前打。直前で米国エースのアボットが登板したが、最高の形で出はなをくじいた。1次リーグでは全体トップの3本塁打。一時は競技引退も考えた30歳が、恩人への感謝を胸に日本をけん引した。

    ◇    ◇    ◇  

右拳を突き上げ、藤田がほえた。1点リードの5回2死一塁。マウンドにはアボットが上がり、米国も勝負を懸けてきた。初球から3連続ファウル。4球目の暴投で走者は二塁に進んだ。6球目。食らいつき、打ち返したボールは右前に弾んだ。一塁ベースにたどり着き、2点目を見届けた。

「球筋は分かっていました。ライズ(浮き上がる)のボールを打ったと思う。それよりも気持ちで引かずに打席に立っていました」

豊かな感情。見方を変えればこれまでの人生、精神的に未熟な部分もあった。

「もうやっていけん。帰る」

13年5月。代表に入った翌年だった。人間関係に悩み、もうソフトボールを辞めようと「逃げ出した」。佐賀女子高の恩師である久保田昭さん、津上さおりさんは親のような存在。所属チームから去り、頼るように佐賀に戻った。津上さんの家に泊まり込み、入院していた久保田さんには、素直な胸中を打ち明けた。チーム関係者との面談も破棄し、海外へ旅行に行く計画を立てていた。そうなるともう、ソフトボールの世界には戻ってこられない。懸念した関係者に止められ、未遂に終わったが、心は競技から離れていた。津上さんは「この子、辞めさせていただけませんか?」とチームに伝えた。その時、隣にいた藤田は「やるよ」。周囲の説得に対する思いに反発心も入り交じり、口から出た言葉だった。

競技は続けた。並外れた身体能力を生かし、成績も残した。ただ、覚悟とは言えず、東京五輪もさほど興味はなかった。

17年4月25日午前5時33分。がんで闘病していた久保田さんが亡くなった。72歳だった。

負けず嫌いで頑固な自分は、仲間とのけんかも多かった。そこに正面から向き合い、道をそれぬように育ててくれた。一番怒ってくれた。自分を作ってくれた人だった。師からは「お前がオリンピックに出る姿を見るのが楽しみだ」と言われていた。いつも素っ気ない言葉を返していた。「頑張ります」と覚悟を示せていないまま、別れの時を迎えてしまった。後悔した。

2日後。葬儀で弔辞を読んだ。声を詰まらせながら、約束した。

「オリンピックに出場し、誰よりも輝くことを。そして私にしかできない事、藤田倭だから出来る事があると思います。誰かの心を動かせる選手に、誰かの記憶に残る選手に。誰かに勇気や希望を与えられる選手になる事を」

うわべではない。心の底から初めて口にした本気の覚悟だった。

3年後のパリ五輪。そこに「ソフトボール」の文字はない。日付が変わった記者会見で誓いを立てた。

「五輪競技から外れてしまいますが、自分も(08年)北京五輪があった時は高校生。今、上野さんとプレーしていることが奇跡に近いです。最高の瞬間を一緒に共にできて、うれしく思います。諦めなかったら願いはかなう。子どもたちにもその夢を持って、ソフトボールを続けていってほしい。自分たちもしっかり、そういう姿を見せていけるように、今後も頑張っていきたいと思います」

藤田だから出来た二刀流-。この夜、金メダルを首から下げ、横浜の空へと報告した。【上田悠太】