長く苦しいレースの最後は、最高の笑顔でゴールした。PTS5(運動機能障害)に出場した谷真海(39=サントリー)は、10位でフィニッシュ。出場10人の最下位にも「ここまで来られて幸せ」と話した。13年9月7日の東京大会招致プレゼンでスピーチしてから8年、結婚、出産、転向、勝利、除外、延期…、2913日のレースの先に、最高の瞬間が待っていた。

    ◇    ◇    ◇

「メダルに縁のないパラリンピアンだったけれど、それ以上の大きな宝物をもらった」。谷は笑顔さえ見せながら言った。陸上走り幅跳びで3回、競技を変えて1回、計4回のパラリンピックに出場したが、メダルには届かなかった。それでも手にした大きな宝物。少し考えて「ここまでの道のりです」と明かした。

苦手のスイムは踏ん張った。「まあまあいい位置」の5位。バイクで遅れ、ランでも離され最下位まで落ちた。それでも「最後は笑顔でゴールしたい」と話していた通り、サングラスをとって手を振りながらゴール。選手、関係者のスタンドから、ゴールした選手から、拍手が起きた。1時間22分23秒、いや8年の「鉄人レース」が終わった。

「苦しかったけれど、これも含めてトライアスロンですから」-。スイム、バイク、ランを一度に行う競技のように、家庭、仕事、競技をこなした。結婚して出産、子育てしながらパラ競技の普及などの仕事もこなし、練習を続けた。何かを犠牲にしても、あきらめはしなかった。家族の協力のもと、すべてやった。

「自然と向き合うのがトライアスロン」-。谷も向き合い、戦った。自身のPTS4がパラ実施クラスから外れた。自分のクラスがないことより、挑戦することができなくなることが許せなかった。「誰もがチャレンジできるのがスポーツ」。だからこそ、ワールドトライアスロンやIPCなどに直訴。挑戦権を勝ち取った末の出場だった。

「1人1人、自分に負けずにゴールしていた。すばらしいスポーツです」-。トライアスロンには「完走者は全員が勝者」という言葉がある。困難を乗り越えてスタート地点に立ち、3つの喜びと苦しみを味わいながらゴールする。谷の8年間も同じ。「今日のレースは減点だけど、これまでの歩みは100点」。この日「勝者」になった。

「スポーツの力」を説いてきた。新型コロナで口にしづらい日々もあったが、思いは変わらない。「感じるのはみなさんだけど、オリパラを通じて1歩前に進もう、特に子どもたちがそう思ってくれれば」。

レース前、夫昭輝さんから「スタートからここまで来られて最高の人生だった。ありがとう」と言われたという。同じ言葉を谷は返す。今後は「分からない」と話したが「充実感でいっぱい」という長いレースはゴールを迎えた。競技者の顔は「パラスポーツの伝道者」の顔へ、そして妻と母の顔へ変わっていた。【荻島弘一】

<谷真海8年のあゆみ>

◆13年9月7日 IOC総会(ブエノスアイレス)で東京の最終プレゼンテーションの先陣を切ってスピーチ。「スポーツの力」を訴え、開催決定に貢献。

◆14年3月7日 ソチ冬季五輪の聖火ランナーとしてソチ市内を走る。

◆同年9月7日 招致活動で知り合った広告代理店勤務の谷昭輝さんと結婚

◆15年4月29日 第1子の長男を出産。「海杜(かいと)」と名付けた。

◆16年1月9日 トライアスロンへの転向を表明。

◆17年5月13日 世界シリーズ横浜大会で優勝。

◆同9月15日 世界選手権に初出場し、初優勝。

◆18年5月12日 世界シリーズ横浜大会を連覇。

◆同8月6日 国際トライアスロン連合(ITU)が東京パラリンピックの実施種目を発表。谷のPTS4は実施を見送られる。

◆同11月25日 ITUは東京パラの実施種目から外れたクラスについて、より重い障がいのクラスとの統合で出場できるとした。

◆19年8月17日 お台場で行われた東京パラのプレ大会に出場して2位。

◆20年3月24日 東京大会の延期が決定。30日に延期が1年となる。

◆21年7月8日 ITUランクにより東京パラの出場が正式に決定。

◆同8月24日 4回目の出場となる東京大会開幕。日本選手団旗手を務める。