【ジャカルタ24日=岡崎悠利】アジア大会が開催されているインドネシアと日本は、今年で国交樹立60周年を迎えた。現地リーグで11年からプレーするMF松永祥兵(29=PSMSメダン)は、昨年10月から両国の親善大使も務める。インスタグラムのフォロワー数は40万人を超え、インドネシアでは有名人だ。かつてシャルケにも在籍した松永がジャカルタで取材に応じ、現地での経験と将来について語った。

インドネシアとの縁は突然訪れた。突然の移籍から8年目を迎えた。11年、当時J2愛媛で契約が切れた松永に代理人から連絡がきた。「インドネシアのクラブが選手を探している。3日後にジャカルタに来られるか」。初めてインドネシアに降り立ったときの光景を回想し苦笑いを浮かべた。「空港を出た瞬間にものすごい人がごった返していて。街も今とは全然違った。そのまま日本に帰ろうかと思いました」。

選手として壁を感じながらの移籍だった。19歳で国士舘大を休学し2年間シャルケでプレーも、大成せず。滞在中は先にドイツでプレーしていたMF長谷部誠と食事をし、当時近国オランダのVVVにいたFW本田圭佑の家に行って話を聞いた。「正直、この人たちのようなストイックさが足りなかった」。日本に戻っても愛媛で出場機会を得られず、挫折を味わった。

それでも可能性を求めてインドネシアに飛んだ。心にはシャルケ時代、ボーフムにいたMF小野伸二の言葉があった。「何をするにも100%でやれ」。同じ静岡出身で、毎晩のように食事に誘ってくれた「僕の中のかがみ」と敬う10歳上の先輩。失意の中にいても、この言葉を裏切るわけにはいかなかった。

だからこそインドネシアでもすぐに前向きになれた。「当時この国は何もなかったけど、つまり大きな可能性があると思えた」。1年目は食べ物があたって体重が落ち、遠征先で日本食店が見つからずにマクドナルドに入ったことも。14年には給料未払いや汚職問題を一掃するという目的でリーグが開幕3試合で突然停止し、路頭に迷いかけた。再開まで職を失った約2カ月は日本の人材派遣会社で働いた。

それでもインドネシアに戻ったのは「ここで生きていく」という決意ができていたから。いまや現地語もペラペラで、高度成長を続けるインドネシアで現在は飲食店の経営など新たな分野への挑戦も始めている。「もちろんサッカー選手としてもともとの夢は違ったけど、どれだけ修正するか。この地でサッカーをしていたから、親善大使にもなれた」。今年1月には東京とバヤンカラFCの親善試合開催のため、2クラブの橋渡し役にもなった。今後はサッカーに限らず、両国の人材交流にも関わりたいという。

常に100%で走り続け、サッカーが持つ可能性は選手としての成功だけではないと知った。サッカーを通して、今は新たな夢ができた。「日本とインドネシアの懸け橋になりたい」。

◆松永祥兵(まつなが・しょうへい)1989年(平元)1月7日生まれ、静岡県三島市出身。ポジションはMF。永伏スポーツ少年団-加藤学園暁秀中-同高-国士舘大。08年に19歳でシャルケに移籍し2年間プレー。その後愛媛に1年間在籍し、11年にインドネシアのプルシブ・バンドンに移籍。今季からはスマトラ島に本拠地を置くPSMSメダンでプレー。現地で5クラブ目。家族は妻と1男。174センチ、64キロ。