思わず記者席で立ち上り、声を上げた。それほど驚いた。97年11月1日、韓国・ソウル。ワールドカップ(W杯)フランス大会アジア最終予選B組の韓国戦。キックオフの笛と同時に、日本が束になって攻めたのだ。MF中田英からのパスを受けたMF名波が左へ展開。FW呂比須がコースを変えて、走り込んできた名波が決めた。その時、ゴール前には3人が飛び込んでいた。開始わずか1分の奇襲に、W杯初出場かける日本の強い決意が凝縮されていた。
9月のホーム戦で韓国に敗れていた。その後、無敗でB組1位を確定させてW杯出場を決めた韓国に対し、同組3位の日本はこの一戦に負けるとW杯出場が絶望的になる。しかも韓国とのアウェー戦は13年間未勝利。当然、守備的戦術で数少ない得点機を生かす戦略を想定していたが、予想は見事に裏切られた。開始から日本は最終ラインを浅く保ち、厳しいプレスをかけ続けた。前半37分には左サイドをえぐったDF相馬のクロスを呂比須が2点目。一気に勝利を引き寄せた。
この試合まで日本は出口の見えないトンネルの中で苦闘していた。初戦こそFWカズの4得点でウズベキスタンに6-0で圧勝したが、その後は5戦未勝利(1敗4分け)。その間、日本協会は監督を加茂周からコーチの岡田武史に代えるショック療法に踏み切ったが、悪い流れは断ち切れなかった。10月にホームでUAEに引き分けると、ついに観客の一部が暴徒化。岡田監督は大胆にメンバーを入れかえる腹を決めた。
ところがUAE戦後の2日間のオフで岡田監督は考えをあらためる。理由は「選手にはずっと負けたわけじゃない、自信を持って戦えと言い続けてきた。ここでメンバーを代えると自分の言葉を否定することになると思った」。何も変える必要はない。そう思うと吹っ切れたという。韓国戦の先発メンバーは11人中9人がUAE戦を同じ顔ぶれだった。自分たちを信じ、退路を断って前へ。その監督の覚悟がチームに自信と勢いを取り戻させた。
韓国に2-0勝利を収めた日本の勢いは止まらなかった。1週間後のホームでのカザフスタン戦はFWカズを出場停止で欠いたが中田英が起点となって5-1と大勝しB組2位を確保。そして、あのA組2位イランとのアジア第3代表決定戦『ジョホールバルの歓喜』を迎える。2-2で迎えた延長後半、中田英のシュートのこぼれ球にFW岡野が飛び込んで、ついにW杯初出場という悲願を実現させた。
3カ月に及ぶ長く苦しい激闘の末に、前線の真ん中に不動のエースがいたチームは、中盤の若い司令塔が周囲を前へ走らせるチームへと変貌を遂げていた。まるでジェットコースターに乗ったような激動の時間は、日本サッカーが新たな時代に踏み出すための通過儀礼だったのかもしれない。そしてあの韓国戦が、今も続く新しい日本サッカーの第1歩になったと私は確信している。
不思議なことに日本代表が息を吹き返すとともに、次々と幸運が巡ってきた。アウェーの韓国戦は相手守備の要、洪明甫が出場停止だった。その試合翌日、UAEがウズベキスタンと引き分けて日本の自力2位が復活した。第3代表決定戦はイランの攻守の中心だったMFバゲリが出場停止。さらにFWダエイが延長後半にフリーの決定機を外した。自信と勢いは運をも引き寄せるのだと、妙に納得したことを思い出した。【首藤正徳】