誰もいないグラウンドを、黙々と走る姿が印象的だった。2001年12月22日、千葉・柏市内の練習場。柏FW北嶋秀朗は孤独な自主トレを敢行していた。前日に02年日韓W杯日本代表候補に選ばれた23歳。「神様が休むなと言っている」とオフなしで1月の鹿児島での代表合宿に備えた。

市立船橋で2度の全国制覇。97年に柏入りすると、00年シーズンは得点王争いを繰り広げ18得点。「正月は返上です」と02年の地元W杯にすべてを懸けた。当時、サッカー担当になったばかりで初対面の記者にも、素直な熱い思いを吐露する。真摯(しんし)な姿勢に、記者の客観性とは別に、人間として応援する気持ちが強くなった。

自らの思い入れが強まる一方で、北嶋は袋小路に迷い込んでいく。1月の代表合宿では気合が空回りするかのように体調を崩し、アピールできず脱落。Jリーグで代表復帰を狙うが、ことごとくゴールに嫌われる。「好調のときは“何でも入っちゃう”ような感覚だけど、入らないと本当に入らない。どつぼにはまっていく感じ」と地元W杯代表も夢と消えた。

翌年、北嶋はチームの顔だった柏から清水に移籍。自分も大阪転勤で担当を離れたが、プレーは常に気になった。06年にはJ2に落ちた柏に復帰も膝を3回手術。年齢を重ねたサッカー選手の復活の例は少ない。それだけに、11年に9得点を挙げ、柏の優勝に貢献し、熊本で35歳の13年まで現役をやり遂げたことはうれしかった。

先日、41歳になった北嶋と久しぶりに話す機会に恵まれた。W杯開催年の02年は「てんぐの鼻をへし折られた」屈辱の1年も、同時に「復活への基盤」にもなった年だったという。スランプの迷いの中から初心を取り戻し「こだわりを捨て、いろいろなことを取り入れよう」と考えを改めた。

年上だけでなく、年下の後輩の話も、謙虚に耳を傾けることに決めた。高校生のいるユースチームにも顔を出した。「柏では工藤(壮人)清水では杉山(浩太)ら年下の選手の話は勉強になった。プレーを言葉にできるし、サッカー偏差値が高かった」。後輩の意見を取り入れたことで、プレーの幅も広がる。選手寿命は延び、30歳を超えてからの復活にもつながった。

今季からJ2大宮のコーチを務める。「上から学ぶのは当たり前だが、下からも学ぶことが大切。それは指導者になっても変わらない。年下から学ぶ姿勢は、どん底の02年があったからこそ、自分の生きるための基礎になったし、その考えは宝物。おじいちゃんになっても年下から学ぶと思う」。取材した挫折の02年は人生で大きな意味を持つ。その事実を知ることができて良かった。【田口潤】