新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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2017年9月10日、神奈川・日大藤沢高サッカー場で行われた神奈川県U-18リーグ4部(K4)の日大藤沢高C-湘南高C戦。夏の暑さがまだ残る午後3時、試合は始まった。

「晋太朗の復帰戦をします。取材に来てもらえませんか?」

試合の5日前。日大藤沢高・佐藤輝勝監督から突然、電話がかかってきた。

その年の6月、インターハイ予選を戦う日大藤沢高ベンチに、夏なのにニット帽をかぶる部員がいた。3年生の柴田晋太朗君だった。

2年生だった16年夏、右肩に痛みを覚えた。それでも神奈川県U-17高校選抜の主将という大役を担い、8月の韓国遠征に参加。相手選手と接触するたび、全身に電気が走るような痛みを感じた。帰国後すぐに病院へ。診断は「右上腕骨肉腫」。100万人に1人という希少がんだった。

1年近い過酷な闘病生活。それを乗り越え、ピッチに戻ってきた。背番号9のユニホームを身にまとい、右MFへ。右上腕部に人工関節が入り、もう自力で腕を上げることはできない。得意だったドリブルが出せない分、テンポのいいパスさばきと左足の正確なキックでゲームをつくった。

1-0とリードした前半35分、柴田君はペナルティーエリア(PA)外から左足でゴール左上へときれいな弾道のシュートを決めた。さらに1分後、今度はPA外からゴール右隅へ再び得点した。満面の笑みで仲間のいるスタンドに向かって走る。復帰戦で見せた鮮やかな2得点。ゴール裏でカメラを構えていた私も、思わず「ウオーッ!」と興奮を抑えられなかった。

90分間の試合にフル出場し、5-0で勝った。スタンドで応援してくれた仲間のもとへと歩み寄った。病気からの復活を祝う歌声が響くと、手で顔を覆ってむせび泣き。会場は感動的な雰囲気に包まれた。佐藤監督も「本当に晋太朗はすごいよ、本当にすごい!」と何度も言い、男泣きした。

柴田君は落ち着いた口調で「僕は口にした言葉は、その通りになると思っています。もう戻れないとか、もうサッカーができないとか絶対に言わない。ウソでもいいから絶対に戻るって、自分に言い聞かせないといけない」。美しい映画のワンシーンのようだった。

この話には続きがある。

「がんが転移しました」。思いがけぬ連絡に驚いた。事情を聴くと、復帰戦を前にした定期検査で判明したが、既に試合は決まっていた。むろん医師は反対した。家族も止めた。だが、それ以上に決意は固かった。「僕はもう1度ピッチに戻る」。副作用がある抗がん剤の薬物投与を受けながら練習に励み、周囲に黙って強行出場していた。

「監督だけには伝えていました。何かあったら、いけないので」

気温30度を超える暑さで後半は意識がもうろう。佐藤監督からは「大丈夫か?」と繰り返し交代指示が出たが、最後まで拒否し続けた。壮絶な自分との闘い、その中での2ゴールだった。そして仲間の歌声に泣き崩れた理由を語った。

「みんなが(がんの再発を知らずに)本当に喜んでくれている姿を見たら、また病気になってしまい、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。僕は人生でほとんど泣いたことがありません。ただ、その時だけは悔しくて」

もう3年近くがたつ。あれが柴田君にとって最後の公式戦になった。がん再発3度、手術は合計6度に及び肺の一部も切除した。欧州でプロサッカー選手になるという夢は消えた。だが「病気になったことで、いろんなことが見えるようになりました。生きることは本当に素晴らしい」と笑う。

今年で21歳、今もがん再発の不安は消えない。それでも常に前向きな気持ちを忘れず、フットゴルファーとして日本代表入りを夢見る。【佐藤隆志】

◆フットゴルフ 日本フットゴルフ協会の公式サイトによると、サッカー(フットボール)とゴルフを融合した新スポーツ。サッカーボールを使い、ゴルフコースで9ホール、または18ホールをラウンドしスコアを競う。18年12月にモロッコで開催された第3回W杯には33カ国から約500人が参加したという。