新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。 生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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「大好きな神戸! ありがとう!」。05年7月26日、神戸ユニバ。当時38歳の神戸FWカズは感極まって絶叫した。リーグ中断期間を使ったプレミアリーグ、ボルトンとの親善試合。先発で後半39分までボールを追った。4年半在籍した神戸でのラストゲーム。試合後はチームフラッグを体に巻いてピッチを1周。「引退みたいでした?」とジョークを飛ばし、同じ港町のJ2横浜FCに向けて旅立った。

美しい惜別シーンの前はぐちゃぐちゃだった。神戸は三木谷社長2年目。即効性を求めて6月までに松永英機、エメルソン・レオンの両監督を解任。FWエムボマ、播戸、カズ、平瀬、MF三浦淳、遠藤彰らがいたチームは崩壊。シーズン公式戦41戦4勝と勝率1割を切った。プロ野球1年目だった楽天の勝率2割8分1厘を下回り、最下位で初のJ2降格。ホーム最終戦でマイクを持つ同社長はファンに「謝れ」と怒号を浴びせられた。同社長は、左手のハンカチで両目をぬぐって「すべては私の不徳の致すところ」と謝罪した。

迷走したチームに、カズも巻き込まれた。開幕から3戦連発、18試合連続先発。しかし6月に兄の三浦泰年コーチと就任58日目のレオン監督が同時にチームを去る。カズはクラブの「監督交代」という説明に「この世界は辞めるか、辞めさせられるか、しかない。交代という言葉はおかしい」と珍しく食ってかかった。

後任は「海釣りの途中で電話が来てびっくりした」というパベル・コーチ。カズはそこから6戦連続ベンチ外。あからさまな「カズ外し」だった。それでも「やることは変わらない。監督によって自分の優先順位が上がるとか下がるとか考えたことなんてない」と語気を強めた。初のベンチ外が発表された7月1日、MF朴康造とたった2人で居残り練習。雷が落ちる土砂降りの中で約30分間、朴のクロスをシュートし続けた。

7月7日、神戸はシーズン中異例の主将選挙をいきなり行った。主将はカズから三浦淳に交代となった。「こんな形になってすみません」と頭を下げた三浦淳に対して「アツが悪いんじゃないよ。神戸のためにできることを変わらず、やっていく」と気遣った。しかしその翌日、クラブから横浜FCのオファーを伝えられた。38歳がクラブの意向を察知しないはずがない。

主将交代から9日後のホーム柏戦。珍しく2軍の練習を休んだカズは試合終了10分前に会場に入った。取材で知った横浜FCの話をぶつけようとゲームそっちのけで駐車場の隅で待った。だが足早に愛車に乗り込むカズには「別に何もないよ」とけむに巻かれた。実はその日、横浜FCの奥寺GMと最終交渉をしていた。

翌日の1面見出しは「カズ、オファーJ2横浜FCだけ」だった。早朝のクラブハウスでクラブ幹部に「カズに失礼だ。本人に謝ってくれ」と怒られた。話にいくと、練習場入りしたカズは「2日連続で1面はなかなかないからさ。もう1回頼むよ」と笑った。格下とみられるJ2移籍にも「試合が多くていいじゃない」。本人がオファーを聞いてからわずか11日のスピード決着。ああ、サッカーがしたいんだな、と思った。

34歳で神戸に来たカズ。ボルトン戦後に「何年できるか、考えていた」と言った。関係者も「神戸で引退だと思っていた」。実際に引退試合のプランもあった。神戸ウイングスタジアムを皮切りにした「全国5大ドームツアー」。夢プランは幻になって、カズは今年で横浜FC在籍16年目を迎えた。その姿を見ると05年夏、雷雨の居残り練習を思い出す。「やることは変わらない」というプロの言葉を思い出す。【益田一弘】