新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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新しい時代を迎えた興奮と未来への期待が、国立競技場からあふれていた。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦、横浜マリノス対ヴェルディ川崎。スタンドは、応募80万人の抽選を突破した幸運な6万人で埋まった。サッカー界が夢にまで見た光景。胸の高鳴りが抑えられなかった。

「Jのテーマ」を奏でるTUBE春畑道哉のギターから出るレーザー光線が真っ暗な国立のスタンドを駆けめぐり、川淵三郎チェアマンが30秒の開会宣言、カウントダウンに続いて、小幡真一郎主審の歴史を告げるホイッスルが鳴った。

「サッカーの取材がしたい」と記者を志したが、84年の入社当時は今では考えられないマイナー競技だった。日本リーグの観客は数えられるほど、取材をしても原稿になることが少なかった。80年代後半に浮上した「プロ化」の話は、夢物語にしか思えなかった。

ところが、90年以降は早かった。各チームで改革が進み、ホームタウンが次々と決まった。ジーコら大物外国人獲得も相次いだ。あのマラドーナ獲得に動くチームまであった。初の屋根付きスタジアム(鹿島)の建設が決まり、J発足の10チームが決定。毎日が刺激的で楽しい取材だった。

満員の国立競技場に胸が熱くなった。高校選手権やトヨタ杯、ラグビーの早明戦などで見た光景とはいえ、夜の試合で見るのは初めてだった。真っ暗な国立で繰り広げられるセレモニーが目に鮮やかだった。

正直、試合の内容はよく覚えていない。ただ、ピッチの選手、特にベテラン勢の動きが硬かったのは印象に残っている。86年W杯予選でプロの韓国に敗れ「日本もプロにならにゃ」と覚悟した加藤久や木村和司、水沼貴史。引退を先延ばしにして日本サッカーを引っ張った思いが伝わった。

試合前、加藤に「いよいよだな」と言われた水沼は涙を流した。その加藤も木村もラモスも、みな涙目だったという。誰もが、この試合の「意味」を知っていた。みな「自分たちでサッカー界を変える」という熱い思いにあふれていた。

カクテル光線に照らされる試合を見ながら「日本サッカーが変わるかも」と思えた。そして、実際に変わった。93年ドーハの悲劇、96年マイアミの奇跡、97年ジョホールバルの歓喜、そして02年のW杯開催。大げさではなく「生きているうちには」と願っていたW杯出場やW杯開催が次々と現実になった。Jリーグ効果なのは、間違いない。

「歴史」は点ではない。過去から未来へとつながる線の上にある。64年東京五輪があったから日本リーグが誕生した。27シーズンの役目を終えた後に発足したJリーグも、昨年27シーズンを終えて再び東京五輪を迎える。記者として、いや人生において歴史の転換期に遭遇する瞬間がある。93年5月15日、あの「特別な試合」を目撃し、取材できたことは、今も財産として残っている。【荻島弘一】