サッカーが、岡ちゃんが、Jリーグに帰ってきた! 新型コロナウイルスの影響でJ3が3カ月半遅れで開幕。元日本代表監督の岡田武史氏(63)がオーナーを務め、今季J3に昇格した今治はJ2から降格した岐阜と0-0で引き分け、Jリーグ初の勝ち点1を手にした。「4強」を掲げ日本を率いた10年W杯南アフリカ大会から、29日で丸10年。PK戦で敗れたパラグアイとの決勝トーナメント(T)1回戦でPKを失敗したDF駒野友一(38)らと、今度は「1年でのJ2昇格」「2025年にJ1で優勝争い」の目標を掲げ、戦国J3に挑む。

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織田信長が「天下とり」を目指した岐阜城の眼下で、今治がJリーグでの初陣を迎えた。無観客でもリモート応援の歓声が流れる中、岡田氏はメインスタンドの上段から鋭い眼光で戦況を見守った。前半11分にはDF駒野のピンポイントクロスなどでチャンスを作りながら0-0。後半は押し込まれたが体を張り、敵地で初の勝ち点を手にした。

14年10月、岡田氏は当時5部相当の四国リーグだったクラブの運営会社の株式51%を取得した。今治に腰を据え、経営者の業務だけでなく、未来への育成を視野に「少年団と中学校と高校と、全部で1つのピラミッドを作ろう」と「今治モデル」を提唱。今治のサッカー哲学に基づいた指導法「岡田メソッド」も完成させた。象徴となるクラブも今季からJリーグ入りと、まさにクラブの“総大将”として、今治の街に活気とサッカー熱を生み出した。

コロナ禍で開幕が延期となる試練にも情熱は屈しなかった。「開幕前にまだやるべきことがあったんだ」と、書斎に資料を持ち込み、オンライン上でスポンサー企業との関係構築に精を出した。4月11日にはクラブ公式サイトで「『勝負の神様は細部に宿る』、試合の勝ち負けを分けるのは『たった1回ぐらい』『俺1人ぐらい』という小さなゆるみであることがほとんどです。新型コロナとの闘いも同じです」と外出自粛などで「命を守ること」を最優先にすべきとも訴えた。

そんな熱いオーナーに声を掛けられ「恩返しできれば」と19年に加入したのが駒野だった。10年前のW杯、8強入り目前でPKを外し敗退。その悔しさも糧に、衰え知らずの右SBとしてチームをけん引。10年前と同じ背番号3を背に、後半27分にはCKで好機を演出。同32分に退くまで、攻守で存在感を示した。

昨季J2の格上からもぎとった勝ち点1。岡田氏は「あんまり気にしていない。まだJ3ですしね」と言いつつ「内容も悪くないし、よく戦っているのかな。ちょっと精いっぱいのところはあったけど。(戦い方は)間違っていないので、このままやっていけば必ず結果は出ると思う」とうなずいた。「世界4強」を目指した南アでのPK失敗から、29日でちょうど10年。今度は「1年でのJ2昇格」「25年にJ1で優勝争い」という目標への戦いへ-。かつて日本を沸かせた今治の「侍」たちが新型コロナ禍を乗り越え、「天下統一」への挑戦へ歩みだした。【浜本卓也】

◆岐阜城 1201年に二階堂行政が稲葉山(現金華山)に築城したのが始まりとされる。戦国時代に入り、戦国大名で「美濃のマムシ」とうたわれた斎藤道三の居城だったが、1567年に織田信長が道三の孫である龍興を稲葉山城の戦いで倒し、稲葉山城から岐阜城と改名する。1576年に安土城が建設されるまでの約10年間、拠点とし、天下とりを目指した。