頼もしい男が帰ってきた。昨年11月に左膝を手術したMF中村憲剛(39)が術後初めてベンチ入りし、後半32分に301日ぶりにピッチに登場。8分後の同40分、大けがを負った等々力の地で16年連続ゴールを決めて復帰戦を自ら祝った。チームも10連勝から2試合連続未勝利だったが、5-0の完勝で3試合ぶりの白星。サッカー人生初の長期離脱を乗り越えた大黒柱が加わり、川崎フロンターレの独走ムードが勢いづいた。

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とっさに反応したのは、苦しみに耐え忍んできた左膝だった。後半40分、中村は相手ゴール前までDFにプレスを掛けると、ミスしたパスが目の前に。「GKも出ていたので、ループを打ったら入るんじゃないかな」。シュートは緩やかで美しい孤を描き、ゴールに吸い込まれた。昨年11月に同じ等々力で悲鳴を上げ、激痛の日々を生んだ左足が、復帰戦での今季初ゴールを生んだ。「等々力に神様がいるなと思った」。この日一番の拍手が降り注ぐ中、今季のゴールパフォーマンス“ゲッツ!”を披露した。

昨年11月2日、人生が一変した。広島戦で負傷交代。左膝前十字靱帯(じんたい)損傷、左膝外側半月板損傷の手術を受けた。全治は約7カ月とサッカー人生で初めての長期離脱は葛藤との闘いの始まりだった。「『やりたい』と『無理』が行ったり来たりしている」。リハビリの強度が上がるほどサッカー愛がうずいた。新型コロナウイルスの感染拡大で、日常でもさらに神経を使った。緊急事態宣言中には痛みが再発。「精神的には来てましたね。緊急事態で外に出られず先も見えず。あの時はダブルパンチでしんどかった」。

葛藤の日々は「大切なもの」を見つめ直す時間にもなった。家族、仲間、スタッフ、誰もが心配し、復帰を待ち望んでくれるのを肌で感じた。クラブのオンラインイベントなどでもサポーターと交流し、背中を押された。「サッカーがないことで逆にサッカー選手としてどうあるべきかというのを、真剣に考えた2カ月ぐらいだった」。元気に楽しくプレーして勝利を届けることが、使命であり生きがいだと再認識してリハビリに打ち込んできた。

試合後、「けがをしたのが等々力で、そこから今日まで、この日のためにすべてをささげてやってきた。感謝、それしかない。サッカーは楽しいな、等々力って最高だなと、あらためてかみしめられたことが何よりもうれしかった」と目尻を下げた。「ここに戻ってくることがゴールじゃなくて、チームに貢献することがスタートライン」。復活、ではない。さらに強さと輝きを増して、中村憲剛が帰ってきた。【浜本卓也】

<川崎FのMF中村のここまで>

◆19年11月2日 Jリーグ第30節広島戦で相手選手と交錯し、負傷交代。

◆同22日 左膝前十字靱帯(じんたい)損傷、左膝外側半月板損傷の手術を受けた。全治は約7カ月と診断された。

◆20年1月19日 宮崎キャンプで術後初めてジョギングを実施。

◆同2月15日 ステップワークとボールを蹴るトレーニングを再開。

◆同7月4日 全体練習に部分合流。

◆7月28日 全体練習で術後初めてフルメニューを消化した。

▼J1連続シーズン得点 川崎FのMF中村憲剛が今季初ゴール。J1リーグ戦では05年から16年連続得点となった。J1限定の連続シーズン得点記録は、99~15年のMF小笠原満男(鹿島)の17年連続。16年連続は歴代単独2位で、94~08年のFW中山雅史(磐田)と98~12年のMF遠藤保仁(横浜F、京都、G大阪)の15年連続を抜いた。

◆中村憲剛(なかむら・けんご)1980年(昭55)10月31日、東京都小平市生まれ。久留米高(現・東久留米総合高)から中大を経て、03年に川崎F入団。同年のJ2開幕戦、広島戦でデビュー。攻撃的MFだったが、04年に当時の関塚監督の提案でボランチに転向。Jリーグベストイレブン受賞8度。J1通算出場数はクラブ歴代トップの459試合で73得点。06年に日本代表に初選出され、10年W杯南アフリカ大会に出場した。国際Aマッチ通算68試合6得点。175センチ、66キロ。家族は夫人と1男2女。好きな言葉は「感謝感激感動」。血液型O。