職業の1つでもあるプロサッカー選手。試合ではピッチで迫力あるプレー見せ、サポーターの心をつかむ。そんな一流選手たちは、どんな1日を過ごしているの? 練習以外の時間はなにをしているの? そんな素朴な疑問を、J1のFC東京の選手たちへぶつけた。「Jリーガーの1日」と題して、選手たちの日常を追ってきたが、今回は番外編として、18年に現役引退した元日本代表の羽生直剛氏(41)。

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羽生氏は現在、東京でクラブナビゲーターとして事業部の側面からクラブを支えている。「ビジネスサイドから仕事を見たい」と強化部から移り、スポンサーと接点を持つ部署とミーティングを行うなど、選手時代から大きく転身した。

東京での仕事にとどまらず、実業家としての一面も持つ。20年に株式会社Ambition22を立ち上げた。スポーツブランドの扱いや、地域の廃校を買い取った企業とタッグを組んでサッカーを通した町おこし事業など、新たなフィールドで活動している。「いずれ、アスリートのセカンドキャリアの問題(の改善)につながるようなイメージを持っている」と、将来的な構想を語る。

引退後にスカウトの仕事をした実体験から、セカンドキャリアについて考えるようになった。「プロ選手の仕事へのアプローチと全然違う部分や価値観で進むものがあると理解した」。アスリートはスポーツに集中するがゆえに、同年代の中でもビジネススキルが乏しくなりがちなことも実感した。

スポーツがメジャーかマイナーかに関係なく、アスリートの強みとはなんなのか。そのひとつとして「仕事を全力でやる、その全力レベルは高いと思う」と考えを語る。生きるか死ぬかと競争にさらされ、1日1日を大事にする感覚がある。つまり、打ち込むことさえ明確なら活躍できる可能性は高いのではないか。「サッカーしかしていないと決めつけて、その後の可能性を狭めていると思う」と、引退後も競技の域から出るのが難しいスポーツ界について、思うことを語った。

起業のため、約1年間を、ビジネススクールやセミナーに出席する時間に費やした。引退後、事業家として知識もないところからの再スタート。今後うまくいくのか、不安もある。それでも挑戦する理由は、現役時代のイビチャ・オシム氏からの学びにある。

学生時代から周囲に「お前がプロなんて無理だ、なれても3年で終わりだ」と言われ続けた。そんな状況だったプロ2年目に出会ったのが、当時所属していた千葉の監督に就任したオシム氏だった。練習を見るなり「なんでお前は勝手に限界を決めている? なぜ代表になろうと思わない? 」と、思ってもいない言葉をかけられた。同時に「こうすれば通用する」と、初めて自信を持たせてくれた。のちに代表監督となったオシム氏に引き上げられるように代表に呼ばれ、16シーズンをプレーした。まわりに「ダメだ、無理だ」と言われても、やれるという大きな成功体験だった。

オシム氏からは常に「野心を持て。サッカーも人生も、チャレンジがなければ豊かにはならない」と言われ続けた。だから、現役を退いた後も挑戦をやめない。「もしオシムさんに会ったときに『選手をやめたからチャレンジはもういいです。リスクは怖いです』なんて言うのはなしにしたい」。会社を立ち上げて、無謀という見方もあるかもしれない。ただ、オシム氏からは練習でも「言われたことだけやるな。自分たちで考えてコンビネーションを作ってみろ」と言われていた。サッカーに限らず、できあがっているものに乗っかるのは簡単だが、アイデアがあれば、新しいものも切り開けると教えられてきた。

思い返せば、サッカーには社会と同じ仕組みが詰まっていた。「どちらも、個人プレーに走る人がいたら成果は上がらない。結果から逆算することの大切さとか、トップに立つ人間はまず成功を明確に示し、どうたどりつくかを提示できることが大事であるとか、考え方は同じ」。サッカー選手として勝つために取ってきた考え方は、どこにでも応用できると気づいた。

「かっこよく挑戦と言われることもあるけど、自分で不安を選んでいるだけ」と笑う。現役時代は30歳を過ぎたあたりから、毎シーズン、1年契約しかしてもらえなかった。「今年だめなら来年はない、というところから7シーズンやった。不安と向き合う時間を嫌がったら、自分じゃなくなるかな」。羽生氏の表情は現役時代と変わらないくらい、生き生きとしていた。【岡崎悠利】

◆羽生直剛(はにゅう・なおたけ)1979年(昭54)12月22日、千葉県千葉市出身。現役時代のポジションは主にMF。八千代高、筑波大を経て02年に千葉に加入。06年には師事していたオシム監督が日本代表監督となり、8月に国際Aマッチデビュー、計17試合に出場。08年に東京へ移籍。10年にはJ2降格を経験も、11年は1シーズンでのJ1復帰に導く活躍。17年に古巣・千葉に完全移籍し、18年1月に引退。東京の強化部に入り、20年からクラブナビゲーターに就任。