極真空手の全日本選手権初代王者で“極真の龍”の異名を取った山崎照朝さん(72)は、現在もさいたま市内の道場で稽古を続けている。現役引退後、地元さいたま市内に空手道場『逆真会館』を創設。格闘技の記者などの仕事をしながら、週末にボランティアで指導を続けてきたが、新型コロナウイルスの感染拡大で3月に閉鎖した。その道場でたった1人で汗を流していた。
取材に訪れたのは4月中旬。山崎さんの稽古は2時間にも及んだ。ミットを巻き付けた支柱に、鋭い突き、蹴りが、間髪入れず打ち込まれる。50キロのバーベルを持ち上げてのスクワット。10キロのダンベルを抱えての腹筋。さらに目にもとまらぬ速さでヌンチャクやサイなどの武器を操る。形の稽古はその迫力に威圧されて近寄れなかった。伝説の空手家は健在だった。72歳という年齢が信じられなくなる。
「これを毎週土、日にやっている。(門下生に)県庁職員や警察官もいて集まるのはよくないから今は1人。指導は辞めても稽古は続けているよ。それ以外の日は自宅近くの荒川の土手を走っている。1時間半くらいかな。現役時代の後遺症はあるよ。ひざ。だから筋肉で武装してる。医学的にはよくないけど、オレは逆療法。それで調子いいからずっと続けてるよ」。
稽古直後の顔に疲労の色はまったくなかった。
“極真の龍”の異名を取った山崎さんは、山梨・都留高2年の時に空手を始めた。
「入学して野球部に入ったけど、夏の交流試合で同学年の甲府商の堀内恒夫(元巨人監督)の剛速球を見た。彼は中学から有名で1年なのにすごい球をバンバン投げていた。高校で初めて野球部に入ったオレは、大きな差を感じて野球を辞めたの。一方で入学式でケンカを売ってきた番長グループに空手をやっているやつがいて、そいつがすごいといううわさでね。オレもケンカには自信があったけど対抗するために空手を始めたの」。
偶然、東京スポーツの広告で見つけた東京・池袋の極真会館に入門した。山梨から片道3時間以上かけて通ったという。
「昔は空手道場が少なくて、番長グループのやつは八王子の道場に通っていた。同じ所に通うわけにはいかないから池袋まで通ったわけ。空手は親には内緒。でも東京まで交通費がかかる。バイトもしたけど全然足りないし、稽古にもいけなくなるから、親に“歌手を目指す”と説得して、都内の『歌謡スタジオ』に通った。もちろん歌手になる気はなかった。きつい空手の稽古の後にスタジオに行くから声も出なかった。そこで一緒だったのが五木ひろし。一応、3年の時に韮崎市での歌謡コンクールにも出たよ。オレはカネ2つ。そのとき五木ひろしが合格したよ」。
高校卒業後、1年半の社会人生活を経て、日大に進学した。ところが入学した途端に日大闘争が勃発。大学が6月に閉鎖されたため、朝から夜まで終日、池袋の道場で稽古に明け暮れた。強くならないわけがない。わずか2年半で黒帯を取得。その強さが評判となり、69年には当時人気のキックボクシングのリングにも上がった。同年1月、NET(現テレビ朝日)が放送を開始した「ワールドキックボクシング」のエースとして白羽の矢が立ったのだ。対戦候補はあの沢村忠の30連勝を止めたムエタイのカンナンバイだった。
「あの頃、ずっと道場で練習していたし、試合でも勝ち上がっていたから、何かというと大山倍達館長はオレに声をかけてきた。オレは大学を卒業したら、ふつうの社会人になるつもりだったから本当はキックはやりたくなかった。でもテレビ朝日が“極真が本当に強いんだったら”と館長に日参してね。館長に言われるとオレも『オス』としか言えなかったから」。
そのカンナンパイを山崎さんは1回KOで撃破するなど8連続KO勝利。思いと裏腹に一躍キックのスターになった。
同じ69年9月、極真会館の第1回全日本選手権も優勝。上段回し蹴りの切れ味は一撃必殺だった。
「夜、自宅アパートで4キロの鉄げたを足に巻いて、天井の電球のヒモ目がけて、前蹴りと回し蹴りを100本くらい繰り返す。最初は足がヒモに引っ掛かっていたけど、慣れるとヒモに触れた瞬間に引けるようになった。あれでビシッとムチのような蹴りができるようになった。道場では蹴りが当たった瞬間に相手がストンと倒れた。館長がよく“蹴りはムチのように”と言っていたけど実践する人はいなかった。オレは実践した。そしたら館長に言う通りだった」。
その山崎さんに目をつけたのが売れっ子漫画原作者の梶原一騎氏だった。山崎さんを漫画『あしたのジョー』に登場する力石徹のモデルにした。確かに力石の風貌とクールな雰囲気は、若い頃の山崎さんによく似ている。
「キックボクシングで勝って、“極真はすごい”となってね。梶原氏も興味を持ってくれたようだった。館長に呼ばれて(梶原氏が)君に会いたいと言っているから、会ってあげたらどうだと言われてね。会ったら“ジョーのライバルの力石のモデルは君だ”と言われた。オレは“そうですか”と言っただけ。キックも空手も続ける気持ちはなかったからね」。
言葉通り、73年の全日本選手権準優勝を最後にあっさりと引退した。実力はトップレベルのまま、空手界から一線を画した。すぐに中日映画社の社員募集に応募して、入社試験を受けた。50人以上の応募者の中から内定したのは山崎さんを含む2人だけだった。その後は中日新聞の子会社でもある東京新聞ショッパーの大宮支社長などを歴任しながら、格闘技ライターなどを本職としてきた。
「武道の精神は社会に生かすために学ぶもの。だから空手で飯を食っていく考えはなかった。本当は指導もするつもりもなかったけど、ショッパーを発行している大宮の地元商店街の人たちにぜひ教えてほしいと言われてボランティアで始めたの」。
最後に逆真会館の名前の由来を聞くと山崎さんは即答した。
「逆もまた真なり。人は必ず壁にぶつかる。その時に大切なのが基本。迷ったら初心に戻る。そんな思い込めたんだ」。
空手だけではない。人生もまた同じ。伝説の空手家の生きざまが、この言葉に込められていた。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)
◆山崎照朝(やまざき・てるとも)1947年7月31日、山梨県大和村(現甲州市)生まれ。極真会館の69年第1回全日本選手権王者。キックボクシングでもテレビ朝日の『ワールドキックボクシング』のエースとして活躍。通算戦績8勝(KO)2敗。引退後は中日映画社を経て、東京新聞ショッパーの大宮支社長などを歴任。格闘技評論家としても活躍。女子プロレスのクラッシュギャルズの打撃コーチも務めた。家族は妻と1男2女。