2018年5月9日、和歌山・海南市に本社があるガーデンライフスタイルメーカー「タカショー」から1通のリリースが届いた。「スピードスケート・ショートトラック 坂爪亮介選手引退のお知らせ」。そこに同社所属の28歳、坂爪のコメントがこう記されていた。

 「私が集大成として位置づけた平昌オリンピックを終え、私の中では全てを出し切ったと思います。次のシーズンも続けるかどうかを考える中で私の心の中に、次を目指すエネルギーや選手として大事な目標がないと感じました。覚悟がない選手は続けられないと思い、引退することを決断いたしました」。

ショートトラックW杯ブダペスト大会で、男子5000㍍リレー銅メダルを獲得した日本代表。右から渡辺啓太、坂爪亮介、吉永一貴、横山大希(撮影・益田一弘)
ショートトラックW杯ブダペスト大会で、男子5000㍍リレー銅メダルを獲得した日本代表。右から渡辺啓太、坂爪亮介、吉永一貴、横山大希(撮影・益田一弘)

 2月17日、韓国・江陵アイスアリーナ。午前10時から平昌五輪のフィギュアスケート男子フリーが行われ、羽生結弦(ANA)が66年ぶりの連覇を達成。宇野昌磨(トヨタ自動車)とのワンツーフィニッシュに日本中が沸いた。午後7時、羽生をねぎらうためにファンから投げ込まれた「くまのプーさん」のぬいぐるみの山は、まだリンク裏に残されていた。その状況下で地元韓国のメダル有力種目であるショートトラックの男子1000メートルと女子1500メートルが、フィギュアに負けない熱気に包まれて始まった。

 2大会連続五輪の坂爪はその男子1000メートルで5位に入り、日本勢の個人として06年トリノ五輪以来、3大会ぶりの入賞を果たした。準々決勝3組を2着で突破し、準決勝2組は惜しくも3着。その後の順位決定戦で1着となった。「どうしても結果で(苦戦が続く日本の現状を)変えていきたい思いがあった」。エースとしての執念のレースは、日にちさえ違えば、もっと大きく報じられていたはずだ。

平昌五輪 ショートトラック男子500㍍に出場した坂爪亮介=2018年2月22日(撮影・PNP)
平昌五輪 ショートトラック男子500㍍に出場した坂爪亮介=2018年2月22日(撮影・PNP)

 平昌五輪約2年前の16年3月、スーツ姿の坂爪は海南市のタカショー本社前でふっと息を吐いていた。事前に同社の公門浩総務部長に連絡を入れ、高岡伸夫社長が取締役会などの合間を縫って出迎えた。公門部長は「えらい神妙な顔だったので『もっと支援のお金をください』とでも言うのかと思った」と笑い、当時を振り返る。

 だが、応接室に入った坂爪の言葉は予想していないものだった。

 「最近、勝てる気がしなくなりました。下(の世代)が上がってきている。五輪にも2回出る意味があるのか分かりません。スケートをやめたいと思っています」

 群馬・太田市出身の坂爪と同社の出会いは、15年和歌山国体に向けて有力選手を県が招く事業の一環だった。14年ソチ五輪は右脚の2カ所を骨折し、チタン製プレートを埋めながらの出場。悔しい結果を受けて「この舞台で勝てるようになりたい」と平昌を目指し、国体後も契約継続を同社に願い出ていた。坂爪は当時をこう振り返る。

 「世界との距離もすごく感じるようになった。いつもはシーズンの後、1カ月以上休むことはないんですが、この時は2カ月以上練習しないで考えるほどでした。いろいろな人にいろいろなことを言われたけれど、どれも響かなかった」

 午後1時から始まった話し合いは、いつの間にか3時間が経過していた。最初は驚いていた社長からは、力強い言葉がかけられた。

 「何を言うとんねん! 君は勘違いしてるんとちゃうか? 結果は気にしなくていいから、好きにやりなさい」

 ようやく考えを変えた坂爪は、その場で言い切った。

 「分かりました。もう1回頑張ります。ありがとうございます」

 両親にはすでに引退する意思を伝えており、会社には相談というよりも報告として向かっていた。移動に使っていた軽トラックのハンドルを握り、笑顔で本社を出ると約2カ月後に韓国へと渡った。都内のリンクから拠点を移し、単身での武者修行を決断していた。

 強豪国でもまれ、平昌五輪までの2シーズンで実力と自信をつけた。会話には英語を用い、美容室ではうまく要望が伝わらないため「バリカンを使って、右と左を合わせて…」と自分で散髪するようになった。父康弘さんは「一番驚いたのは自炊するようになった。『肉じゃがはどう作るの』とか聞いてくるようになった」と笑い、一時帰国した際にはひじきや高野豆腐を買い込んだ。大会の申し込みやチケットの手配も、全て自分で行った。

 そんな男を後輩たちは追った。1年後の17年春からは高3で後の平昌五輪に出場する吉永一貴(中京大)らが、坂爪と同様に韓国に渡った。口数は多くないが、面倒見のいいエースの姿は、自然と道しるべになっていた。

男子500㍍準決勝のレースで転倒する坂爪(撮影・PNP)
男子500㍍準決勝のレースで転倒する坂爪(撮影・PNP)

 平昌五輪での個人入賞から5日後の2月22日。男子5000メートルリレーの5~7位決定戦は、残り8周でギアを上げた坂爪の転倒により、最下位に終わった。結果的に最後となった五輪レースを終えての感想は「予選もB決勝(順位決定戦)も、自分の転倒でパーになってしまった。本当に申し訳ない」。それよりも力強かったのは、横にいた吉永の言葉だった。

 「坂爪さんが攻めてくれて、こけたのはしょうがないです」

 13日のリレー予選での転倒後にも、2歳年下の渡辺啓太(阪南大職)がこう言っていた。

 「結果的には坂爪さんが転倒したけれど、誰もが攻めたら転倒する氷だった。もし、僕が同じように攻めていても、どうなっていたか分からないです」

 五輪での結果はもちろん大切だが、覚悟を持って世界と戦う姿勢を次世代に伝えた。3月の世界選手権では同じメンバーで臨んだ5000メートルリレーで銅メダルをつかみ、五輪の悔しさを晴らした。父の仕事の関係で幼少期を米デトロイト郊外で過ごし、近くにリンクがあったことで偶然出会ったスケート。あの日、所属先の社長が首を縦に振れば引退を決断し、やってこなかった五輪イヤーだった。3時間の話し合いを機に前へ、前へと進んだ坂爪が、ショートトラック界に残したものは大きい。

 「これから先、まだ私自身どのような道を進むのか模索しており、これからの人生をどのように歩んでいくか、じっくり考えているところです。一人前というには程遠いですが、これからも人として精進していけるよう頑張りたいと思っております」

 ただの紙1枚ではない、坂爪の人柄がにじみ出る「現役引退」のリリースだった。【松本航】


 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。兵庫・武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、平昌五輪ではショートトラックとフィギュアスケートを中心に取材。