履正社医療スポーツ専門学校のスポーツ外国語学科で学科長を務める佐藤秀典氏(撮影・松本航)
履正社医療スポーツ専門学校のスポーツ外国語学科で学科長を務める佐藤秀典氏(撮影・松本航)

グラウンドではなく、学校での再会が新鮮だった。7月13日、大阪市淀川区の履正社医療スポーツ専門学校。そこにワイシャツ姿の佐藤秀典氏(39)がいた。

ラグビー日本代表の通訳として15年ワールドカップ(W杯)イングランド大会、昨秋の日本大会に携わった。そんな佐藤氏がかみしめるように言った。

「この立場になって“あの2人”のすごさを、違った角度から感じています」

“あの2人”とは15年W杯で日本代表ヘッドコーチ(HC)を務め、南アフリカ戦の歴史的勝利に導いたエディー・ジョーンズ氏(60)。そして4年後に過去最高のW杯8強へとけん引した、現HCのジェイミー・ジョセフ氏(50)を指していた。

周囲が驚く転身だった。佐藤氏は昨秋のW杯で通訳に区切りをつけ、同校にやって来た。肩書は今春新設された「スポーツ外国語学科」の学科長。16年に打診され、その時点で決めた。

「英語を使えば、それだけ多くの情報を得るチャンスがあります。例えばパソコンで『ラグビー』『Rugby』と検索してみても、ヒット数で何倍も差がある。ありがたいことに名将の近くで学ぶこともできて『今度は育てる方にシフトしたい』と思ったんです」

ネーティブの教員との授業に参加する履正社医療スポーツ専門学校スポーツ外国語学科の生徒(撮影・松本航)
ネーティブの教員との授業に参加する履正社医療スポーツ専門学校スポーツ外国語学科の生徒(撮影・松本航)

1期生は3年制の昼間部に15人、2年制の夜間部に3人が入学してきた。中には佐藤氏の学科長就任で進学を決め、ラグビーの通訳やトレーナーを志す生徒もいる。佐藤氏は教員をまとめる役割を担い、カリキュラムの準備など、学びの環境作りに力を注ぐ。ジョーンズ氏の言葉が胸に響く。

「エディーに『人前で話す時は緊張するが、それとパニックとは違う。緊張はいいことだが、パニックは準備不足』と言われたことがあります。生徒がこの学校で準備できれば、スポーツの現場で必ず生きます」

通訳時代、ジョーンズ氏からのメールの確認が起床後の日課だった。1通目は午前3時半に届いていた。

「○○に○○を伝えておいてくれ」-

時に10通にも及ぶ事細かな要望への対応に必死だった。一方、ジョーンズ氏の睡眠時間が3~4時間とも知っていた。それほどまで準備した上で「お前、疲れているか?」とわずかな変化を見逃さない人だった。

現在の立場でこだわるのも、スポーツ現場を意識した「準備」だ。その1つが「フィジカル・イングリッシュ」という科目。河川敷などへ出向き、生徒は英語でスポーツの指導を行う。

「単語力、語彙(ごい)力、文法も大事ですが、アウトプットする量が足りていないと話せない。これも訓練が大事。現場では瞬発的な反応が求められます」

学科長の立場であり、教壇に立つのは3年時の「スポーツ通訳」までない。それでも自ら生徒と個別面談を行っている。そのやりとりは1時間に及ぶという。

「ジェイミーのすごいところは、選手やスタッフの『自分で考える力』を育んでいました。例えば1対1のミーティング。ジェイミーから『何かある?』と聞かれるから、選手は話す内容をいつも準備しました」

2人の名将に授かった学びは、今の仕事に生かされている。だが、2人を知るからこそ、苦しくもなる。

「僕も責任者として決断する立場。その1つで生徒が左右されます。国を背負うエディーやジェイミーと規模は違いますが、決断を下す勇気、度胸を求められます。2人はW杯であれだけの成果を出した。その過程を知っているからこそ、自然と『あの基準でやらないと成功しない』と考える自分がいます。2人の基準を目指すけれど、すぐにできるものでもない。そのジレンマを感じる日々です」

今春誕生したばかりの新学科だが、新型コロナウイルスの影響でリモート授業が続いた。昼間部の2年時には10カ月の海外留学、以降も進路に沿った現場の実習を予定する。今後の海外渡航の見通しなど、不安材料は消えない。順風満帆の船出とは言えないだろう。

その上で、取材の最後に聞いてみた質問がある。

「今の夢は何ですか?」

答えに迷いはなかった。

「英語を使える人材を、スポーツ界に送り出す。目の前の生徒みんなを、1人前にすることが夢です」

挑戦を選んだ39歳の決意は、ぶれない。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆佐藤秀典(さとう・ひでのり)1981年(昭56)3月28日、東京都生まれ。10歳で家族とオーストラリアに移住。現地の高校卒業後に帰国。03年に母が通訳を務めていた社会人チーム「ワールド」で仕事を手伝ったことが、通訳となったきっかけ。以降はキヤノン、NTTドコモ、サンウルブズ、日本代表で計16年間活動。デスメタルバンドのボーカルとしても活躍。

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大ではラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月からは西日本の五輪競技やラグビーが中心。18年平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを担当し、19年ラグビーW杯日本大会も取材。

19年10月、会見で記者の質問に照れ笑いするトンプソン(左)。右は佐藤通訳
19年10月、会見で記者の質問に照れ笑いするトンプソン(左)。右は佐藤通訳