長らく止まっていた、時計の針が動き始めた。
2021年1月11日、全国大学ラグビー選手権決勝。3度目の決勝に臨んだ天理大は早大を55-28で圧倒し、初優勝を飾った。1925年(大14)創部の古豪がつかんだ優勝には、さらなる価値が上積みされた。
関西勢として36大会ぶりの大学日本一。主将の4年生フランカー松岡大和は、もちろん当時を知らない。
「天理大学も含めて関西1位になるけれど『大学選手権に入ったら、なかなか関東に勝てないだろう』という声の中で、天理大学が優勝できた。関西のラグビーを盛り上げる意味でも、プラスになると思います」
立場は挑戦者だった。だが、36年前は違っていた。
1985年1月6日、東京・国立競技場。全国大学選手権決勝で3連覇を狙う同大が、伝統校である慶大の挑戦を受けていた。
10-6。その終盤、自陣ゴール前のスクラムで同大は劣勢に陥っていた。
2年生FBとして出場した綾城高志の耳に、信じられない声を聞こえてきた。
「平尾さんが『はよ、トライさせてまえ!』と叫んだんです。『この人は何を言っているんやろう…』と思ったことを忘れません」
同大のCTBは「ミスター・ラグビー」と呼ばれた故平尾誠二さん。2連覇中の王者とはいえ、国立の観客の大半は慶大の応援だった。そんな状況でも、平尾さんにはトライを取れる自信があった。FW戦で時間を消耗するぐらいであれば、もう1本取りにいくという自信の表れだった。
このスクラムを同大は瞬時の判断で乗り切った。京都・伏見工高出身の2年生フッカー森川が、長崎南高出身の4年生プロップ馬場と入れ替わった。綾城は懐かしそうに回想した。
「FBだった僕は試合後に知りました。森川個人の判断だったそう。今思えば、連覇はなるようにしてなったんだと感じますね」
部長の故岡仁詩さんは常々「形がないのが同志社のラグビー」と口にした。重要な局面での選手の判断に、当時のスタイルが凝縮された。平尾さんにも、森川にも根底に自信があった。
この優勝から関西の復権に36年もかかるとは、当時は誰も思っていなかった。
4連覇を目指した85年度の初戦。12月、愛知・瑞穂で戦ったのは早大だった。綾城は「平尾さんや土田(雅人)さん、大八木(淳史)さんが抜けても、戦力的には十分優勝を狙えた」と振り返る。だが、チーム内はメンバー選考をめぐって、一枚岩になれていなかった。3-32。綾城は言う。
「勝っているときは勝つことが難しいと思いませんでした。負けた時から勝つことの難しさが分かった」
同大、京産大、大体大…。以降も関西勢が国立へと足を踏み入れたが、頂点に届かなかった。「関東の壁」というフレーズが毎年のように繰り返された。
関西の有望な高校生が関東に流れる構図。今から2年前、天理大監督の小松節夫による分析が印象深い。
「うちが1回、2回と優勝しても、変わらないと思います。関西が9連覇ぐらいしたら、変わるんじゃないですかね。僕らが強くなって、そのスタイルに憧れてもらうしかないと思う」
では、36大会ぶりの優勝で関西勢が得られたものは何だろうか-。日本一の監督として臨んだ、決勝後の記者会見。小松は言った。
「大学ラグビーの伝統校は非常に強くて、たくさんの大学が優勝していない。そこに仲間入りするのは『非常に敷居が高いな』という思いをずっと持って、悔しい思いをしてきました。それを1つ越えられた。『関西でも優勝できるんだ』と関西の学生たちに分かっていただいて、関西リーグの全体的なレベルが上がっていく期待をしています」
天理大が東京から持ち帰った「自信」。その価値は尊い。(敬称略)【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)
◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大ではラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月からは西日本の五輪競技やラグビーが中心。18年ピョンチャン(平昌)五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを担当し、19年ラグビーW杯日本大会も取材。