生粋の「長野っ子」の五輪デビュー戦は、ほろ苦いものとなった。18日に行われた北京オリンピック(五輪)スピードスケート男子1000メートルに出場した小島良太(23=エムウェーブ)は1分9秒97で20位に沈み、「実力を出し切れなかった」と悔しさをかみしめた。
1998年の長野五輪の約3カ月後に長野市内で生まれた小島は、開催会場だったエムウェーブを拠点に3歳から滑り始めた。「オリンピックに出たい」と常日頃語り、その夢は20年後に現実となった。
思うような結果は出せなかったが、関係者たちは文武両道を体現して地道な努力を積み重ねて大舞台に挑んだ23歳を誇らしげに語っていた。
長野市内で接骨医院を営む原山修さん(58)が、小島と初めて出合ったのは「生後2カ月くらい」。施術に訪れた両親が連れ、赤ん坊だった小島をベビーベッドに乗せてあやした。それ以降交流が続き、小島は今も高気圧酸素カプセルの利用やけがの治療で来る機会が多い。長年の付き合いを思い返しながら「あの良太君がまさかオリンピックに出るなんてね」と懐かしそうに笑った。
小島の母校で県内有数の進学校として名高い屋代高の恩師も、教え子に熱視線を送った。3年間担任を務めた西沢秀雄さん(64)は「成績は5段階評定でオール4以上でした」と、文武両道を貫いた様子を紹介。
入学当初から信州大教育学部野外教育コースの進学を希望し、そのために日頃から隙間時間にも勉強に取り組んでいたという。西沢さんが大会時に引率した時には、「試験期間でもないのに、苦手な英語の勉強をしていました」と振り返る。地道な努力を続けて目標に到達する一面は、リンクの上で見せる姿と重なった。
学校推薦で信大に入学した小島は、在学中から同校教授の結城匡啓氏に師事。尊敬する指導者の下で着々と経験を積み、昨年10月の全日本距離別選手権、同12月の五輪選考会1000メートルでともに優勝。初めての五輪切符をつかんだ。
小島の活躍に刺激を受けた長野・屋代高新聞班は今年1月末、先輩の快挙を伝える「号外」を作成。A4サイズ1ページ分のカラー紙面では壮行会、恩師が語る学生時代の様子、初の五輪での展望の3本の記事を載せた。新聞班の班長で2年海沼さやさん(17)は「学生時代から小島選手が自分を律して真面目にコツコツやってきたからこそ、オリンピックの舞台にたどり着いたんだなと実感しました」。先輩に対して一層親近感が湧いた。
大会後に小島が母校に訪れた時には、インタビューを申し込むつもりだ。海沼さんは「実際に挑戦して感じたこと、オリンピックの雰囲気がどうだったのか気になります。学生時代にもどんな生活を送っていたのか掘り下げたいです」。初の五輪で世界との差を痛感させられたが、まだ23歳。関係者たちは皆、この挑戦を糧にさらに飛躍を遂げる小島の姿を楽しみにしていた。【平山連】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツ記者コラム「We Love Sports」)






