F1日本グランプリのバックヤードに、ホンダ経営陣の怒号が響いた。「何であんなに遅いんだ」「いくら金を使えば勝てるんだ」。10月12日、富士スピードウェイの決勝を走った2台のホンダ勢は、完走15台中13位と14位。地元開催で2台ともに1周遅れという屈辱的な結果が、撤退を後押ししたことは間違いない。

 だが撤退は10年以上前から段階的に進められてきた。創業者の本田宗一郎氏が亡くなる1年前の90年、和製スーパーカーを目指した「NSX」が発売された。88年にエンジンを供給したマクラーレンが16戦15勝の金字塔を打ち立てた直後で、F1=スポーツカーのイメージ戦略を前面に押し出そうとした賭けだった。

 しかし「NSX」は在庫の山を築いた。価格は800万円と当時の日本車で最高ランクだったが、メーター類が量産セダンと同じだったりして、プレミアムカーを期待したファンにそっぽを向かれた。92年にF1参戦を休止したのは、「NSX」をはじめとするスポーツカーの販売不振が直接の原因だった。

 その後、ホンダはスポーツカー生産を縮小。ミニバン、コンパクトカーなどの大衆車を主軸に据え、安定した収益を上げる優良企業に生まれ変わった。後輪駆動のF1マシンやスポーツカーより、コストが安いFF車(前置きエンジン前輪駆動車)が中心。エンジンは主に簡便なSOHC(F1、スポーツカーはDOHC)。05年には象徴的なスポーツカー「NSX」の生産を終了させ、経営の柱を大衆車にシフトし終えた。

 並行して00年にF1へエンジン供給を再開したが、レースで培った技術を市販車に直接フィードバックできない状態が続いていた。この時点で、F1は技術開発やイメージ戦略とは無縁の趣味的な活動に変ぼう。世界的な金融不況以前に、ホンダ車に“F1スピリット”は流れていなかった。【「クルマ天国」担当・荒牧公哉】