ラグビー日本代表で主将、監督を務めた神戸製鋼ゼネラルマネジャー(GM)の平尾誠二(ひらお・せいじ)氏が20日午前7時16分、53歳で死去した。詳細は非公表。京都・伏見工高3年時に司令塔(SO)として全国制覇。同大では史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼でも日本選手権7連覇、W杯にも3大会連続で出場した。34歳で日本代表監督に就任するなど卓越した理論や情熱、カリスマ性で「ミスターラグビー」と呼ばれた。日本開催の19年W杯を前に、ラグビー界は大きな存在を失った。葬儀・告別式の日取りは未定。

 あまりにも早い、無念のノーサイドだった。昨秋、日本代表が歴史的快進撃を遂げていたW杯の裏で、平尾氏はひっそりと胃の手術を受けていた。周囲には「胃潰瘍」と説明。その時点で「余命3カ月だった」と証言する関係者もいた。

 医師の話を聞いた平尾氏は「いろんなこと(治療)をやってきたから、もういいか」と漏らしたが、夫人からの「私らのために生きて」の言葉に奮起したという。公の場から姿を消した今夏以降、神戸市内での自宅療養や京都市内の病院で闘病生活を続けた。親しい人にさえ病状を語らず、病と闘ってきた。

 現役時代から「ミスターラグビー」として親しまれた。京都・伏見工高3年時の全国制覇は人気テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルになった。荒れた高校のラグビー部を奇跡の日本一に導いた。華麗なステップや突破力で魅了した。スター街道の第1歩でもあった。

 同大では82~84年度に全国大学選手権3連覇に貢献した。当時、大学と社会人の王者がぶつかる方式だった日本選手権で“北の鉄人”新日鉄釜石を破ることはできなかったが、釜石の司令塔松尾雄治との「読み合い」は、名勝負数え歌として国立競技場の大観客を沸かせた。

 大学を卒業し、英国留学中の85年には抜群の容姿を買われてファッション誌にモデルで登場。自身に違反の認識はなかったが、アマチュア規定で日本代表を外され、多くの企業からのオファーも消滅。それでも声をかけ続けてくれたのが神戸製鋼で社長就任前の亀高素吉氏(享年86)だった。

 パス、キック、ラン…。SOに必要な要素を持ち合わせ、日本代表や神戸製鋼で主将を歴任。当時から「スペースをつくるラグビー」を追求し、世界での経験を仲間へ落とし込んだ。一方で亀高氏への恩義を忘れず、神戸には最大の愛情を注いだ。94年度の日本選手権7連覇達成の2日後に阪神・淡路大震災が起こると、ラジオから「皆で立ち上がりましょう」と呼びかけた。理論家であり、情熱家だった。

 病床の身ながら今夏には、神戸製鋼の合宿の映像をタブレットで見つめ「昔の神戸製鋼みたいになった」と感心していたという。昨秋のトップリーグ開幕前には「空前のラグビーブームで今は(注目が)五郎丸君にシフトされているが、シーズン終わりには神戸製鋼一色にしたい」と、端正な顔とトレードマークのひげをさすっていた。弱っていく自身を周囲に見せず、最後までダンディーで格好いい姿を貫いた53年の人生だった。

<平尾誠二(ひらお・せいじ)アラカルト>

 ◆1963年(昭38)1月21日 京都市生まれ

 ◆75年 京都・陶化中でラグビーを始める

 ◆78年 京都市立伏見工で泣き虫先生・山口良治監督(当時)に出会う

 ◆81年 1月7日の全国大会決勝でSOとして大阪工大高を7-3で下して初優勝。同年、同志社大に進学。CTBもこなす

 ◆82年 19歳4カ月の当時史上最年少で日本代表入り

 ◆85年 1月6日の大学選手権決勝で慶大を破り、当時史上初の3連覇を達成。抜群の容姿を買われてファッション誌にモデルで登場。アマチュア規定違反として日本代表を外される

 ◆86年 1年間の英国留学を経て神戸製鋼に入社

 ◆87年 日本代表としてニュージーランド、オーストラリア共催の第1回ラグビーW杯出場

 ◆91年 欧州での第2回W杯に主将として出場。ジンバブエ戦でW杯初勝利に貢献

 ◆95年 1月15日の日本選手権決勝で7連覇。決勝2日後に阪神・淡路大震災で被災も、同年のW杯南アフリカ大会に3大会連続出場

 ◆96年 1月28日の全国社会人大会準々決勝で敗退し8連覇ならず。

 ◆97年 日本代表キャップ35で現役引退し、34歳で日本代表監督に就任。神戸製鋼ではゼネラルマネジャー(GM)に

 ◆99年 日本代表監督としてウェールズでのW杯で3戦全敗

 ◆00年 日本代表監督辞任。3月にはスポーツと地域社会の振興を目的にNPO法人の「スポーツ・コミュニティー・アンド・インテリジェンス機構」を設立し理事長に就任。スポーツ課外授業や、トレーニング手法の提供などに取り組む

 ◆06年 日本ラグビー協会理事就任

 ◆08年 日本サッカー協会理事に就任

 ◆11年 文部科学省の中央教育審議会委員就任

 ◆12年 ラグビーW杯2019組織委員会理事就任

 ◆15年 日本ラグビー協会理事再任

 ◆家族は夫人と1男1女