日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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街もにぎわっていた08年12月24日だった。東京・中野の行きつけのすし店で妻と夕食をとっていると、携帯電話が揺れた。「今から話せますか? 実は、もう中野にいるんです」。液晶には「石井慧」の3文字が浮かび上がっていた。

イブの夜である。破天荒ながら愛嬌(あいきょう)がある石井らしいな、と心の中で苦笑いしつつ、念のため妻と顔を合わせ、合流の了解を得る。4カ月前、北京五輪の柔道男子100キロ超級で金メダルを獲得した大男が、国士舘大の付け人と2人で登場すると、店内がざわついた。

腹を軽く満たすと、数カ月後に第1子出産予定だった妻を帰宅させ、静かで話しやすそうな近所のバーに移動した。「どうしたの?」と会話を促すと、石井は「明日、UFC視察のため渡米します。とにかくプロとして頑張ってきます」と真剣な表情を浮かべた。

見かけによらず繊細で義理堅いから、プロ総合格闘家として、いよいよ1歩を踏み出す覚悟を伝えたかったのか。「さまざまな技術を学び、自分を研き、世界中の猛者と戦いたい。格闘家として、人として強くなりたいんです」。

強くなりたい-。石井を取材していて、何度もこの言葉を聞いた。その思いを実現するため死に物狂いで練習に励む姿を見てきた。北京五輪前年の秋、減量のない100キロ超級に転向した際には「鍛えた筋肉を減量で削る、自分を弱くする意味が分からなくなった」と言った。北京五輪を間近に控える08年6月下旬に右足親指を脱臼し離脱した時には号泣したが、すぐに「強くなるため」と筋トレに特化したジムに通い始め、上半身をいじめ抜いた。

あれから11年以上が経過した。あの夜「強くなるためには、世界のどこにでも行きます」と話していた石井は今、クロアチアを拠点とする。勝利と敗北を繰り返し、格闘家、そして人として成長しているのだろう。強くなるための意欲は際限ないはずだから。

ただ、時々思う。石井が今も柔道家として強さを追い求めていたら、34歳で迎える来夏の東京五輪で4連覇を目指していたのではないか、と。「たられば」が絶対にいけない世界なのは理解しつつ。【菅家大輔】