バレーボール女子日本代表で64年東京五輪金メダリストの井戸川絹子(いどがわ・きぬこ、旧姓谷田=たにだ)さんが、脳出血のため、4日に大阪府内で亡くなっていたことが6日、分かった。81歳。葬儀は家族葬で終えられた。関係者によると、3日までは普段と変わらない様子だったといい、4日朝に倒れているところを家族が見つけた。

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たった3カ月前の9月3日、大阪・豊中市内の喫茶店で井戸川さんと落ち合った。1時間の取材でアイスコーヒーを2杯ずつ飲んだ。実家はかつてそば屋を営んでおり、少し無愛想な喫茶店の店主の態度に「あれはアカン。私も店やってたから許せない」。はっきりと思いを伝える人だった。

日本代表では「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督(故人)に鍛えられた。「1人3本」と言われて始まったレシーブ練習は、なぜか自分だけ10本以上。腹が立つと体育館の外に飛びだし、グラウンドへ「バカやろ~!」とさけんだ。

口達者だが、誰よりも練習に食らいつく姿を名将は認めていた。ある日、大松監督から「これを読んでくれ」と新聞を手渡されると「『みんなを映画に連れて行こう』って書いてあります!」と笑わせた。練習中にわざと監督の尻を平手打ちし「ごめん、先生のおしりやった」とおどけたこともあった。猛練習を支えたムードメーカーだった。

7年前の13年9月、20年東京オリンピック(五輪)の開催が決まった。その時「もう1回、出たい!」と思ったという。思い出の舞台は新型コロナウイルスの影響で1年延期が決まった。56年前の金メダルを手に、あの日の喫茶店で井戸川さんは言った。

「東京五輪のバレーを現地で応援したいですよね」

その一言が、忘れられない。【五輪担当=松本航】

◆井戸川絹子(いどがわ・きぬこ)旧姓・谷田。1939年(昭14)9月19日、大阪府生まれ。池田市の北豊島中でテニス部に入部したが、素振りばかりの1週間で退部。バレーボール部に入部した。四天王寺高では小島孝治監督(故人)から「バスケットゴールの板を触れば、練習に入れてやる」と命じられ、ジャンプ力をつけた。日紡貝塚に入社し、日本代表としては62年世界選手権優勝、64年東京五輪金メダルにレフトとして貢献。168センチ。