1964年東京オリンピック(五輪)の体操女子団体の銅メダリストで、元参議院議員で国家公安委員長などを務めた小野清子さんが13日に死去した。85歳だった。新型コロナウイルスに感染して治療中だった。

体操男子五輪金メダリストの小野喬さんと夫婦で60年ローマ、64年東京と五輪2大会連続出場。2児の母として臨んだ東京大会で体操女子日本史上唯一のメダルを獲得した。86年の参院選に自民党から出馬してメダリスト初の国会議員となり「サッカーくじ法」成立にも尽力した。

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自民党関係者によると小野さんは1月中旬に自宅で転倒して骨折。入院治療中に新型コロナウイルスに感染した。その後、感染症指定医療機関で治療を受け、1度は回復したものの、容体が急変して13日に亡くなった。コロナ禍のためすでに葬儀は近親者のみで執り行われ、お別れの会なども予定していない。弔問、香典、供花も辞退している。

「ママさんアスリート」の先駆けだった。58年に東京教育大(現筑波大)の先輩で4歳上の喬さんと結婚。夫婦そろって出場した60年ローマ五輪の翌年に長女が生まれ、63年には長男を出産。小野さんは引退するつもりだったが「東京でメダルを」と周囲に説得され、64年東京五輪は2児の母として出場した。

当時、子供を預ける施設は少なく、秋田から上京した母に1歳の長男の面倒を見てもらったが、3歳の長女は練習場へ連れていくことが多かった。00年の本紙の取材で小野さんは「跳び箱の最上段を逆さにして、その中で遊ばせていました」と振り返っていた。そんな苦労も銅メダルの発奮材料になったようだ。

引退後は夫と二人三脚で、日本の民間スポーツクラブ第1号となる「池上スポーツ普及クラブ」を東京都大田区に創設。学校体育以外での青少年の体づくりと、スポーツの普及が目的だった。幼児から成人、選手育成まで目的に応じたコースを設置。88年ソウル五輪代表の小西裕之ら日本代表選手も輩出した。

86年7月、スポーツ施設の充実と改善を目指して参院選に自民党から出馬。五輪メダリスト初の国会議員として国家公安委員長など要職を歴任。特に98年の「サッカーくじ法」の成立に尽力した。totoの本場イタリアを喬さんと自費で視察。日本では反対の声も根強かったが「スポーツ振興の財源になる」と粘り強く訴えた。

16年には国際オリンピック委員会(IOC)から五輪運動の発展に寄与したとして「五輪オーダー(功労章)」が授与された。2度目の東京五輪について小野さんは14年に本紙にこう語った。「“被災地のため”なんておこがましい。磨いた技術を試合でしっかりと出す。その結果、いい成績が残せれば被災地に元気が届くかもしれない。最高の努力が恩返しになるの」。そのコメントにスポーツの本質が凝縮されていた。【首藤正徳】

▽日本体操協会の遠藤幸一常務理事 (09年に死去した父幸雄さんは64年東京五輪金メダル)父が亡くなった時も思いましたが、チャスラフスカさんらと上(天国)で楽しくやれているのではないか。東京五輪を成功させて、(天国から)見届けてもらいたい。