世界に敵はいなかった。1984年(昭59)ロサンゼルス五輪、柔道無差別級金メダルの山下泰裕氏(42=全日本男子監督)は、対外国人110連勝(3分け挟む)を含め8年間で通算203連勝、無敵のまま引退した。80年モスクワ五輪の日本不参加も乗り越えての金メダル奪取。五輪選手では初めての国民栄誉賞も受賞した山下氏にとっての五輪とは何か。

16年前のロサンゼルス五輪。柔道の男子無差別級決勝は「伝説」となった。右ふくらはぎ痛を負った山下氏が、ラシュワン(エジプト)を横四方固めで抑え込んで一本勝ち。「右足を攻めなかった」と言ったラシュワンは翌年にユネスコのフェアプレー賞を受賞。世界中の人々の記憶に残る五輪の歴史的な1ページだが、山下氏には自身だけが知り得る違った記憶が脳裏に焼き付いている。

山下 「多分、ラシュワンの言葉をとり違えているんじゃないかな。記者に「右足を攻めれば勝てたじゃないか」と質問され「正々堂々と戦った」と言ったんだろうと思う。彼がフェアに戦ったのは事実です。でもケガした右足を気遣って、全く右の技をかけなかったというのは事実ではないと言えます。最後だって僕は右払い腰にきた足をさばき、左の払い腰をすかして、倒して抑え込みました。確かに右足に技はかけているのです」。

4年に1度しかない世界スポーツの祭典、五輪。勝つ最善の方法を見つけ出して戦った選手が、世界の頂点に立てるといえるだろう。常に五輪の最前線で戦ってきた山下氏はこう強調する。

山下 「どうやったら勝てるかにすべてを懸けるのは、五輪で当たり前のこと。いかに相手の弱いところに自分の一番強いものを持っていくかというのが基本です。相手の意表を突くのが戦いの鉄則。五輪の場に情けの気持ちを持つ人は、あの場には立てない。スポーツだけでなく、競争そのものに向かないと思う。五輪という舞台は、自分のやってきたことを出し切る場だからね」。

80年モスクワ五輪代表に22歳で選ばれながら、日本は不参加を表明。幻の五輪代表となってしまった。4年で訪れるはずの五輪は、8年になった。モスクワ五輪代表7人全員が初代表。しかしロサンゼルス五輪代表に残っていたのは山下氏ただ1人だった。

山下 「私以外の全員がロサンゼルス五輪までに引退しました。無念の気持ちを抱いて引退した先輩を見ていて、もう1度、五輪に挑戦できる私は幸運だ、と思えましたね。今まで一番緊張したのはロサンゼルス五輪です。ただ不思議なのは、世界選手権では「日の丸」ということや、日本柔道を背負うことを意識していたのに、五輪は全くなかったんです。僕の夢だったし、何としても自分の夢を実現したいという気持ちの方が強かった。ものすごく緊張したけれども、自分自身のために戦うという気持ちが上回ったんですね」。

(2000年1月26日付日刊スポーツ紙面より)

◆山下泰裕(やました・やすひろ)1957年(昭32)6月1日、熊本県矢部町(現山都町)生まれ。小学4年から柔道を始める。東海大相模高3年時に全日本選手権3位。19歳の77年全日本選手権で史上最年少優勝を達成し、以後85年まで9連覇を達成。世界選手権は79年パリ大会95キロ超級V、81年マーストリヒト大会は95キロ超級、無差別級の2冠、83年モスクワ大会で95キロ超級V3。84年ロサンゼルス五輪無差別級で金メダルを獲得し、史上5人目の国民栄誉賞を受賞する。92年10月から全日本男子監督を務める。家族は夫人と2男1女。現役時は180センチ、130キロ。