<関東大学ラグビー:早大15-3明大>◇1日◇東京・国立競技場

 早明戦の「ノーサイド」に、国立が泣いた。改修工事が来年から始まる国立競技場での試合後、シンガー・ソングライターの松任谷由実(59)が登場。5万人近いファンと選手らの前で「ノーサイド」の生歌を披露し、40年にわたる国立での早明戦を締めくくった。試合は、早大が明大の粘りに苦しみながらも15-3と勝利。定期戦の通算対戦成績を51勝36敗2分け(大学選手権を含め56勝43敗2分け)とした。彼は目を閉じて、枯れた芝生の匂い深く吸った-

 長い歴史にピリオドを打った早明両校の選手が、入り乱れてピッチに並んだ。勝者も敗者もない。枯れ芝は緑に変わったが、目を閉じればつらく苦しい1年間がよみがえる。選手たちと5万ファンの拍手に迎えられて、ユーミンが夫の松任谷正隆氏と登場した。ゆるやかな冬の日の黄昏(たそがれ)に-

 数々のドラマを生んできたピッチに、照明がついた。ユーミンは選手たちの健闘をたたえ「すべてのラグビーOBにささげたい」と話して「ノーサイド・夏~空耳のホイッスル」を朗読。「はかない夏が過ぎてゆく頃、少年は戦士になる」で終わると、正隆氏のピアノが「ノーサイド」の印象的な前奏をかなでた。歓声よりも長く、興奮よりも速く-

 秩父宮ラグビー場が改修された73年、初めて国立が早明戦の舞台となった。以来40年、多くの名勝負が生まれた。「ノーサイド」誕生のきっかけの1つでもある早大SO本城がボールを蹴り、明大WTB吉田が走った。雪の中、明大が押すモールから湯気が立ち上った。チケットの応募に67万人が申し込み、当日券を求めて1週間前から徹夜組が出る社会現象にまでなった。5万ファンがそれぞれの早明戦を思う時、電光掲示板に早大プロップ垣永主将の涙が映った。何をゴールに決めて、何を犠牲にしたの-

 両校は今年もこの日が1つのゴールだった。さらに、国立を満員にすることも。超満員だった試合も近年は観客半減。選手が同級生に声をかけ、ビラを配った。練習で疲れた体を、さらに酷使。ほぼ満員に近い観客を眺め「1年間の努力を考えて、うるっときた」と話した垣永はFW戦でも奮闘、チームを勝利に導いた。人々がみんな立ち去っても私、ここにいるわ-

 「幾多のラガーマンたちの“NO

 SIDE”を胸に万感をこめて」とコメントしたユーミン。来年も再来年も早明戦は続く。ただ、誰かが垣永と同じ3番をつけて駆けるピッチは、国立ではない。改修後の新国立で行われるのは19年W杯。「そのために、今がある」と、早大FB藤田は2度とかぐことのない風を深く吸って、6年後を見つめた。【荻島弘一】

 ◆早明戦

 1923年(大12)12月24日に記念すべき第1回が開催され、今回で101戦目を迎える伝統の一戦。通算成績は早大の56勝、明大の43勝、2分け。対抗戦だけに限れば早大51勝、明大36勝だ。国立競技場に会場が定着したのは73年(昭48)。秩父宮ラグビー場が改修に入ったのを機に会場を移し、今回で51回目。国立での対戦成績は早大25勝2分け、明大24勝2分けで終えた。国立の前身である明治神宮外苑競技場も27年から46年の間、会場となっており、そこでの対戦成績は明大10勝、早大8勝と明大が優勢だった。

 ◆今後の早明戦

 会場は未定。関東協会によると、味の素スタジアム(調布市)、日産スタジアム(横浜市)が挙がっている。秩父宮は、収容人員が約2万5000人と少ないため、早明ともに避けたい意向だ。

 ◆ノーサイド

 84年12月発売のアルバム「NO

 SIDE」のタイトル曲。この年の全国高校大会決勝、大分舞鶴SO福浦のPG失敗からヒントを得たとされる。「リーグ戦-」のくだりは、早明戦の早大SO本城からとも。05~08年全国高校大会公式テーマ曲。