3大会連続出場の日本代表フッカー堀江翔太(33=パナソニック)はタッチライン際に1人立ち、腰に手を当てた。歴史的勝利を万歳で喜ぶバックスタンドに目をやり、家族を探す。ふと空を見上げると涙が出た。「おやじ、上で見てるかな…」。3月21日、10年前から大腸がんと闘病した慎一さんが64歳で他界。着物のセールスマンとして一家を支えた父は「W杯まで頑張りたい」と願っていた。

ボールを前に運んだ数はチーム2位の13回。堀江は1センチ、1ミリと粘り腰で進み、スクラムのかじを取り続けた。「プレーヤー・オブ・ザ・マッチ」の盾は80分間走り抜いた勲章。左まぶたの上に貼った、ばんそうこうは「ちょっと切っただけ」と照れた。その姿こそが“代表の兄貴”だった。

20日、4万5745人に見守られた開幕ロシア戦。勝利後のロッカールームで輪になり、全員で歌った。

♪ビクトリ~ロ~ド、この道~、ず~っと~、行けば~、最後は~、笑える日が~、来るの~さ~、ビクトリ~ロ~ド♪

映画「耳をすませば」の主題歌「カントリーロード」の歌詞を置き換えたチームソング。堀江は口ずさみながら、その様子をスマートフォンで撮影した。無料通信アプリ「LINE」を立ち上げ、動画を添付。そこに、一言だけ添えた。

「お前の文化残ってるで」

送り先はプロップ山本幸輝(28=ヤマハ発動機)だった。チームソングを選曲し、歌詞を作った張本人。8月下旬、最後の絞り込みでW杯日本代表から漏れた弟分の顔も忘れなかった。現在、代表を引っ張る9人のリーダーに堀江の名はない。自分が指摘し、後輩が従うように動く姿は嫌いだ。「若くても、年を取っていても、いいもんはいい」。あえて1歩引き、行動で伝えることにこだわった。

学びは自らの人生にあった。公立の大阪・島本高ではキックも操るFW。パスも器用にこなす今のスタイルは「自由」から養った。のちに全国大学選手権9連覇を達成する帝京大で、戦術の知識を加えた。卒業前、ニュージーランド(NZ)のカンタベリー協会からフッカー転向の打診を受けた。迷いなくFW第3列と別れを告げ、海を渡った。

周囲の声など気にせず、本気でNZ代表「オールブラックス」入りを狙った。職は高校の寮の用務員。朝から夕方まで壁を磨き、こけを取った。英語はできない。海外の生活は苦痛だった。カンタベリーアカデミーの練習では、ラインアウトのスローが定まらなかった。転向1年目だろうが、フッカーとして下される評価。自分だけでなく、日本のラグビーが見下されていると感じた。「あの2年間、自信を得た瞬間はなかった」。州代表にも届かず、荷物をまとめて帰国した。

日本では追われる存在になった。母国に戻った09年に代表初キャップを獲得。三洋電機(現パナソニック)で主力となっても、日本人の先頭で新しい景色を求めた。13年から2季はスーパーラグビー(SR)のレベルズ(オーストラリア)に在籍。日本人FW最初のSR選手となり、16年に始動した日本チーム「サンウルブズ」では初代主将を担った。望んだものではなかったが、世界を知る男は日本ラグビーの発展を思った。1勝1分け13敗。へらへらしている仲間に腹を立て、頭を抱えた。突っ走り、振り向いた時に分かった。

「自分の長所は知識と引き出し。今は料理の材料を調合する方法が分かった」

年下の仲間と抱き合った静岡の夜、歩んだ道は肯定された。「『絶対勝つ』という気持ちで、何年間も過ごしてきた。うれしかった」。言葉はいらない。日本の最前列には、そんな大きな背中がある。【松本航】