昨年6月4日の新日本の京都大会で原爆固めを受けて中心性脊髄損傷の重傷を負った野人・中西学(45)が7日、復帰に向けたトレーニングを本紙に初公開した。復帰を急いで負傷を悪化させ、昨年10月7日には脊髄の狭窄(きょうさく)症を取り除くために手術した。1日7時間のリハビリで日常生活に支障がなくなり、プロレスラーとしてリングに上がるための戦いが始まった。「必ず復活してG1出場、IWGP王座挑戦を目指す」と決意を語った。

 東京・上野毛の新日本道場。中西は毎日のように午前10時から午後3時まで汗を流す。「まだレスラーとしてはマイナスの段階。これをゼロにして、上を目指す」と意気込む。前転、倒立、3点倒立にロープワーク。機能を回復させる基本的な運動、そしてウエートトレーニング。160キロを軽々と上げたベンチプレスは、まだ半分の80キロ。それでも、トレーニングできる喜びを感じている。

 救急車で運ばれた翌日、体が動いた。「軽率だった。8月のG1に出たかったから、すぐにトレーニングを始めた」。これが裏目に出た。岐阜の病院で9月までのリハビリを強いられた。そして10月7日、東京の脊髄専門病院で体にメスを入れた。「良くなっても、車椅子が必要と言われた。プロレス復帰に選択の余地はなかった。引退は考えなかった」と振り返る。

 術後、朝、昼、夜の1日7時間のリハビリをこなした。歩けるようになった昨年12月24日。坂口征二相談役の計らいにより、後楽園大会のファンの前で203日ぶりにあいさつをした。「この世界、忘れられるほどつらいことはない。うれしかった」。仲間のレスラーもメッセージを送り続けた。「彼らに恥をかかさないためにも、万全の態勢で復帰したい。先は長いけど、夏がめど」。欠場中に24歳のIWGP王者オカダ・カズチカが誕生した。「強い新日本の王者として、強さを見せてほしい。復活したら必ず、G1、IWGPを狙っていく」。野人が復活へ向けて“進化”し始めた。【小谷野俊哉】

 ◆中西学(なかにし・まなぶ)1967年(昭42)1月22日、京都市生まれ。専大時代にアマレス全日本選手権4連覇。92年バルセロナ五輪代表。同年8月に新日本入り、10月13日に藤波辰爾と組みS・ノートン、S・S・マシン戦でデビュー。97年5月に小島聡とIWGPタッグ王座獲得。99年G1優勝。09年5月IWGPヘビー級王座。得意技はアルゼンチン式背骨折り、原爆固めなど。186センチ、120キロ。血液型A。

 ◆11年6月4日新日本京都大会

 メーンで中西、本間、後藤組と棚橋、天山、井上組が対戦。井上の原爆固めを受けた中西が動けなくなり、11分41秒にレフェリーストップ負け。観客に棚橋が事情を説明した。中西は会話はできたが左手にまひがあり下半身に力が入らなくなり、首を器具で固定されて病院に搬送。翌日、中心性脊髄損傷と発表された。