このニュースにはゾッとする。14日に広島空港でアシアナ機が着陸失敗。死者こそでなかったが、けが人が多数出た。J1広島は、この事故の影響を考慮し、東京戦(18日、味スタ)のための東京行きの飛行機をキャンセル。新幹線移動に変更したという。

 3月24日にはドイツの航空会社「ジャーマンウィングス」の機体がフランスのアルプスに墜落した。実はこの便を日本のサッカー関係者が予約しており、搭乗する予定だった。急きょスケジュールが変わってキャンセルしたため、惨事を免れたというから、聞いて背筋が凍る。たびたび飛行機を利用する仕事柄、人ごとではないと思いながら、あの人のことを思い出す。

 58年2月6日に起こった「ミュンヘンの悲劇」。マンチェスターUが、旧ユーゴスラビアのベオグラードでの試合後、給油のため寄ったミュンヘンで起きた。離陸を試みたが機体は飛び立たず失敗。同クラブの公式ホームページによると選手8人を含む23人が亡くなった。奇跡的に生き残り、ボビー・チャールトンらとともにクラブ再建に尽力したのが、ビル・フォルケス氏だった。屈強なセンターバックで事故後から主将を引き継ぎ、マンUで688試合出場したレジェンドだ。88年に来日し、広島の前身マツダSCでヘッドコーチを務めたこともある。

 自分が大学2年のとき、サッカーの遠征でマンチェスターへ行ったことがあった。地元クラブと練習試合を行い、プレミアリーグなどの試合を観戦。遠征費を安く浮かすため、宿泊はマンチェスター大学の寮に泊まった。約2週間の遠征は今でもいい経験となっている。その遠征で、チームのもとをよく訪れてくれたのが、ビル氏だった。

 恥ずかしながら会うまで存じ上げていなかったが、いろいろ話を聞かせてもらった。鮮明に覚えているのは、天才ドリブラーの逸話。同氏の中でNO・1選手はジョージ・ベストだと言い「彼は試合開始10分前にロッカールームに来てユニホームに着替えると、試合ではスルスルとドリブルで相手を抜いて、ゴールを決めた。試合を終えると、さっそうと夜の町へ戻っていったよ」。体はでっかくて、優しい目で、ゆっくりと話す言葉に、19歳の自分は聞き入った。

 そして最後は悲劇の話に触れ、こう締めくくる。「2度とあんな惨事が起こって欲しくない」。そう語り続けることに意義を感じて、そのときも言ってくれたんだと思う。今回の事故のニュースを見て、当時の悲しそうに話すビル氏の顔を思い出した。

 ビル氏は13年11月25日、81歳で亡くなった。その訃報を本紙の海外サッカー欄の小さな記事で知った。地元クラブとの練習試合の後「今日、いいプレーしてたね」と言われたことは、下手くそだった自分にとって、ひそかな自慢。遠く離れた日本で記事を読みながらご冥福を祈り、手を合わせた。

 半世紀以上たっても、不幸な事故はなくならない。どんなに便利になっても、聞きたくも見たくもないニュースはなくならない。今、自分ができることは伝えること。そう思い、コラムにさせていただきました。【栗田成芳】


 ◆栗田成芳(くりた・しげよし)1981年(昭56)12月24日生まれ。サッカーは愛知・熱田高-筑波大を経て、04年ドイツへ行き4部リーグでプレー。07年入社。J担当クラブは東京と甲府。昨夏のブラジル大会でW杯初取材。たまに参加する個人参加フットサルで「もしかして経験者ですか?」と言われることにも、最近慣れてきた。